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あ、今日読んだ漫画

#らーめん再遊記 10巻 評論(ネタバレ注意)

『ラーメン発見伝』の続編の『らーめん才遊記』の更に続編の現作。

シリーズ未読の方にものすごく雑に説明すると「ラーメン版『美味しんぼ』」みたいな作品群。

脱サラして開業したラーメン店が苦節を乗り越えて成功し事業を拡張、ラーメン店向けに始めたコンサル業も順調、メディアにも露出しラーメン産業を盛り上げてきた立役者の一人と認められ、職人・経営者としてラーメン業界を代表する第一人者となった芹沢。

ラーメン業界の世代交代と新たな時代の到来を前に、なぜか芹沢はやる気が出なかった…

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

雑に説明すると、自らの原点に立ち返った王が、自ら育てた天才児にその玉座を禅譲し、自らは放浪の旅に出る、的なそういう話です。そういう話をラーメン業界で。

職人・経営者のトップとしてラーメン業界の頂点に立ちそこから降りた主人公が、身分(?)を隠して大手チェーンのラーメン屋にバイトとして潜り込んで店舗内の若手のいざこざに首を突っ込んでみたり、山の頂上から見下ろしていたラーメン業界の裾野を歩いて回る話。

今巻は、芹沢の創業期、90年代のニューウェーブ・ラーメン・ブームの頃にライバルとして切磋琢磨し盟友として認め合ったかつての天才・原田との再会編。

業界関係者の万人が認める天才ながら大衆受けせず、伝説の名店を2年で閉店して姿をくらました原田と偶然再会。

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

原田は長年のヒモ生活にピリオドを打ち、ラーメン店を復活させるべく旧知の外食コンサル小宮山、そしてたまたま居合わせたラーメンYouTuber・グルタにサポートを依頼。

依頼された2人の縁者である芹沢と評論家の有栖にも、原田の動向が聞こえてくるが…

サバイブするために妥協してビジネスを成功させた芹沢と対照的に、理想を貫き通して2年で店を潰した原田のかつての天才を、これでもかと持ち上げる「原田持ち上げ巻」。

読んでるだけで原田のラーメンを食ってみたくなります。

けど二重の意味で、意味ないんですよね。

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

一つ目はどうでもいいぐらい当たり前だけど、「絵に描いたラーメン」だから、という本当に当たり前のメタな話で、この漫画に出てくるラーメンのほとんどはそうなんで、それはどうしようもないんですけどw

グルメ漫画でこの「メタの壁」を解決するには、実在の料理を描くしかないんですよね。どうにかして小林銅蟲の友達になって彼の料理のご相伴にあずかれないものだろうかw

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二つ目はメタじゃなくて作中目線で、今巻のエピソードにおいてはこっちが大事なんですけど、ラーメン屋の「かつての天才」って存在は、思い出の中のノスタルジーとしてしか意味ないんですよね。

作中で百花繚乱の創成期の熱量が語られる例として、ラーメンと並列でロックとプロレスが例に挙げられるんですけど、ラーメンと他の二者との間には決定的な違いがあって、ロックもプロレスも、もっと言ったら漫画も、映像データや音声データや画像データで時代の熱量や天才を後世に再体験・追体験ができるんですけど、ラーメンはそれができません。

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

どんなに天才でも、今日、明日、作られないラーメンには思い出や歴史としての意味しかありません。

それだけじゃお腹が空くわ。

抜かれない剣に武器として意味はあっても、食えないラーメンに食い物としての意味はありません。

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

フォロワーや後継が居れば別ですし、だからこそ一流の料理人の世界では徒弟制度や事業の拡大や店の後継者問題がしばしば課題になりますが、原田にはフォロワーや後継者に関する描写もされません。

有栖も小宮山もちょっと思い違いしているというか、ノスタルジーに浸りすぎてもう食えもしないラーメンをちょっと持ち上げて神格化しすぎじゃないですかね。

ラーメン作らなきゃ、ラーメン屋やらなきゃ、「理想と現実の狭間で葛藤」して汚れることもなく、そりゃいつまでも「かつての孤高の天才」で居られるよね。

『らーめん再遊記』10巻より(久部緑郎/河合単/小学館)

などと考えたところで、同じ「才能と努力と厳しい競争」のクリエイター(ミュージシャン・漫画家)やアスリート(プロレス)と同じような世界なように見えて、個としての「作品」を後世に残せず評価されにくい分、料理の世界の「孤高の天才」ってより特殊に厳しく孤独なんだな、などと思いました。

他にそういうジャンルってなんかあるかな。

 

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