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あ、今日読んだ漫画

#風の谷のナウシカ 1~7巻【完】 読んだ(ネタバレ注意)

年末年始で新刊が発売されないので、過去に発表された名作を読み返します。
今日は「風の谷のナウシカ」です。

 

「人類はわたしなしには亡びる
 お前達はその朝をこえることはできない」
「それはこの星がきめること・・・」
「虚無だ!!それは虚無だ!!」
王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」
「お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」
「ちがう いのちは闇の中にまたたく光だ!!」

日本を代表するアニメ映画監督・宮崎駿によって月刊アニメージュ徳間書店)に1982年から1994年、12年かけて連載されたSFファンタジー作品です。
同名のアニメ映画が1984年に公開され、作者のアニメ映画監督としての認知度を著しく高めました。

17歳の私が生まれるはるか昔の話なので、私はWikipediaを参照しました。国粋主義の作家のようだと非難するのをやめてください。

興行収入が振るわなかった「カリオストロの城」で、それでも宮崎に注目したアニメージュ副編集長・鈴木敏夫を通じて、宮崎は手塚治虫虫プロ?)との合作アニメ映画「ロルフ」の企画を、徳間グループの映像事業会議にかけます。しかし「原作がないから」との理由で却下されました。

「原作がないなら原作を描けばいいじゃない」と考えた鈴木と編集長の尾形英夫は、宮崎を口説き落とし、「ロルフ」の構想を更に膨らませた漫画「風の谷のナウシカ」を月刊アニメージュで連載開始させます。もちろん、映画化を睨んでのことです。

アニメの監督・演出家によって、アニメ雑誌で、映画の企画を会議で通すために描かれ始めた漫画です。これから映画を作ろうという多忙を極めるであろう監督に、自ら原作漫画を連載させるなど、私には正気の沙汰とは思えません。

連載開始の2年後、劇場用アニメ映画「風の谷のナウシカ」は劇場公開され、宮崎は役目を終えた漫画連載について終了させることも考えました。しかし結局、後の映画制作のための休載を挟みながら、この後10年をかけて物語を完結させました。

宮崎がもともとは漫画家志望だったとはいえ、黄金期を迎えつつあった週刊少年ジャンプをはじめとする、大手出版社による漫画出版のメインストリームから、かけ離れたプロセスからこの作品は生まれました。

版が大きい代わりに厚さが薄いので、あなたはすぐに読み終わると思うかもしれません。しかし、大きな版にはそれ相応の数のコマと絵、セリフが描き込まれていて、読破には意外なほど時間がかかる作品です。

「火の七日間」と呼ばれる伝説的な全地球規模の戦争によって、それまでの人類の文明社会は滅び、激しく汚染された未来の地球が舞台です。

腐海」と呼ばれる猛毒の瘴気の森が地表を覆い、「蟲」と呼ばれる巨大で獰猛な生物が新たな生態系の主として君臨し、人間は腐海の及ばない僅かばかりの土地にへばりつくように暮らしています。ディストピアです。

「風の谷」と呼ばれる小国の王を父に持つ少女・ナウシカは、古い同盟先の大国・トルメキア、これと敵対する土鬼(ドルク)帝国の戦争に巻き込まれながら、腐海を旅して多くの生命の生と死を目の当たりにします。やがて腐海の秘密、蟲の秘密、歴史の秘密、地球の秘密、そして人間の秘密にたどり着きます。

私はこの漫画を読む度に五つのことを考えます。

一つ目は、私ももちろん映画を繰り返し視聴した関係で、主要な人物の声を把握しているので、漫画を読んでいても脳内で「その声」で再生されるということです。
ナウシカの人は「カリオストロの城」のクラリスの人であり「めぞん一刻」の管理人さんでもあります。彼女が後年、同じくポストアポカリプスをテーマにしたTVアニメ「少女終末旅行」において人類に滅亡を告げる役柄を演じたのは、おそらく偶然ではないでしょう。あるいは本当に人類が滅亡するとき、人々は再び彼女の声を聴くのかもしれません。またクシャナの人は「Zガンダム」のハマーン・カーンの人であり「パトレイバー」の南雲隊長の人でもあります。2人とも私がとても好きな声優さんです。そしてアスベルの人は長い時を経て、「もののけ姫」でアシタカを演じました。

二つ目に、手塚治虫の「火の鳥」と並んで、あるいは「ハンターハンター」のメルエムがコムギに示した慈しみを見て感じたように、この漫画を読むと生命の尊厳ということについて考えます。
ナウシカの最後の決断は完結して20年以上が経過した現在でも、度々議論の対象になります。

anond.hatelabo.jp 

三つ目は、宮崎が映画監督ではなく漫画家の道を選んでいたら、どれだけ映画と漫画の歴史が変わっただろうか、ということです。
アニメ演出・映画監督の道も宮崎を作った重要な要素だったことを考えれば、アニメを経験せずに描かれた漫画はもしかしたらあまり面白くなかったかもしれません。
あるいは逆に、第二の手塚治虫として、藤子不二雄に並び立つ存在として大成していたかもしれません。
あるいは存命だった手塚治虫と批判合戦の末にどこかの授賞パーティで殴り合いの喧嘩のひとつもしていたかもしれません。

四つ目は、漫画の多様性についてです。私はジャンプが代表する大手出版社のメジャー漫画誌の漫画を数多く読んで育ってきており、それらを生んだ例えばジャンプのシステム、具体的には漫画家の作品投稿からプロデビューのキャリアプラン、毎週やってくる締めきり、アンケートによる冷酷な打ち切りシステム、ヒット作の引き伸ばし、それらの問題点を含めても、面白い作品を量産してきた点をとてもポジティブに評価しています。にも関わらず、ジャンプからこの漫画は生まれ得なかったことは確信を持って言うことができます。漫画出版のメインストリーム的でない漫画を描く漫画家の受け皿がたくさんあることは、それはとても大切なことだと感じます。あるいはインターネットがその役割を果たしつつあるのかもしれません。

五つ目は、宮崎の正体は実はあっちの世界で生まれて、こっちの世界に転生してきたクロトワなのではないかということです。
決して男前には描かず、かといって無闇に無様な振る舞いもさせず、傍観者の立場で合いの手のようにメタフィクショナルにボヤきツッコむ様は、まるで80年代の漫画の作中にしばしば登場する漫画家のようです。
なにより、あの実際に見て触ってきたかのような腐海に覆われた世界のあの描写を、空想だけで描いているとは私にはどうしても信じる事ができません。
あと、ヒゲがぼーぼーなところです。