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あ、今日読んだ漫画

#めぞん一刻 〔新装版〕 1~15巻 【完】 読んだ(ネタバレ注意)

年末年始で新刊が発売されないので、過去に発表された名作を読み返します。
今日は「めぞん一刻」です。

 
「好きなら好きってはっきり言いなさいよ」
「好きじゃないふりして愛されようなんて、ムシのいい話だわ。」
「いくじなし。見栄っぱり。弱虫。」
「弱虫。」
「弱虫。」

まるで漫画の神様に愛されているかのように、才能とヒットに恵まれた「ラブコメの女王」によるラブコメ漫画のスタンダードです。もしくは嫉妬され警戒されていたかもしれません。1980年から1987年にかけて、ビッグコミックスピリッツ小学館)に連載されました。

発表されたタイミングは、日本の人口のボリュームゾーンのひとつである、団塊ジュニアと呼ばれる前後の世代の思春期を直撃しました。「思い出補正」と呼ばれる感情を考慮に入れた、世間一般の「一番好きなラブコメ漫画」のランキングの上位から、この作品を引きずり下ろすのはなかなかの至難の技でしょう。あるいは時間が彼らの人数と記憶を淘汰するのを待たなくてはいけないかもしれません。

いきなり余談で恐縮ですが、私の地元では確か水曜日の19:00から「きまぐれオレンジ☆ロード」が、19:30から「めぞん一刻」が、それぞれTVアニメ放映されていました。(順番は逆だったかもしれず、また木曜日だったかもしれません。)両作とも主人公が優柔不断な男子で、ヒロインが気が強い長い黒髪の女子だったこともあって、私の母はどうも両作を混同というか、「きまぐれオレンジ☆ロード」を丸ごと「めぞん一刻」の回想シーンだと勘違いしていた節があります。そう考えなければ「いつまでめぞん一刻観てるの!」と始まったばかりの19:35に怒られたり、鮎川まどかを「管理人さん」と呼んでいたりした記憶の辻褄が合いません。

閑話休題

今作の前に高橋留美子は1978年連載開始の「うる星やつら」で21歳の時にプロデビューを果たします。小学館はまるでリオネル・メッシを見出したFCバルセロナのように注意深く高橋を遇し、以来40年間に渡ってそのキャリアと著作を出版する権利を独占しています。そしてこの作品は高橋が23歳の時に描き始めました。

前述のとおり「うる星やつら」と同時並行で連載・執筆され、両作ともにちょっとした社会現象になりました。現在で喩えるなら「ぼく勉」と「かぐや様」を同じ漫画家が描いているようなものでしょうか。私の印象ではその空想よりももう少し影響力が強かったように思います。

そして同じ1987年、高橋が29歳の年に両作とも完結しました。理由は高橋が青春の証として20代のうちにこの2作を完結させたいと望んだからだと言われます。

彼女の作風には一定のパターンがあり、読者が不快にならない容姿の男女の主人公、彼と彼女の片方もしくは両方が相手に好意を持ちながら、素直に好意を示すことができません。彼と彼女は頻繁に口喧嘩をし、時に口をきかなくなったり、家出をしたり、空中に相手を蹴り上げたり、電気ショックを与えたりします。当時はまだ「ツンデレ」という言葉は普及していませんでした。

彼と彼女は聞き間違い・勘違い・思い込み・物理的なすれ違い・意地の張り合いなどのありとあらゆるコミュニケーション不全から、あるいは相手が浮気をしたかのように不信感を持ち、あるいは愛の告白をされたと有頂天になり、その都度ドタバタ劇を発生させます。

ドタバタ劇が収束していく過程で、彼と彼女は相手に対する理解を少しだけ深め、共通の思い出を積み重ね、そしてそれを最終回まで繰り返します。

箱庭の中に彼と彼女、愛すべき隣人たちをたくさん並べ、高橋はその箱庭をいろんな角度から揺さぶったり、石を投げ込んだり、落としてみたりします。高橋は「そうするとキャラが勝手に動く」と語ります。その箱庭を、高橋の短編集のタイトルから「るーみっくわーるど」と呼ぶ人もいます。

現在の一般論として、高橋と読者の間にはある種の信頼関係があり、高橋が自分が生み出したすべてのキャラクターに愛情を持っていることは周知の事実です。愛すべきキャラクターたちが不幸なまま物語が終わらないことをよく知っている読者は、安心してドタバタ劇を楽しみます。この当時の読者は高橋のハートウォーミングな「物語の終わらせ方」をまだそれほど知らなかったので、ドキドキハラハラしたはずです。

王道でありオーソドックスとも言える作風かもしれませんが、その王道であるオーソドックスの確立に高橋自身が一役買ったであろうことは、多かれ少なかれ皆さんの認めるところでしょう。

彼と彼女は、あるいは「高校生と宇宙人」であり、あるいは「少女に変身する格闘少年と格闘少女」であり、あるいは「妖怪と女子高生」であるかもしれません。
この作品の彼と彼女は「浪人生とアパート管理人の未亡人」でした。

この物語の登場人物はその大半がナンバリングされたファミリーネームを持ち、アパート「一刻館」のそれに対応した部屋に居住します。1号室に一ノ瀬、2号室に二階堂、4号室に四谷、6号室に六本木、といった具合にです。そして管理人室にはヒロインの音「無」が、5号室に主人公の五代くんが住み、また三鷹、七瀬、八神、九条といった、ラブコメ要素に深く関わる登場人物は逆に一刻館に居住をしません。

主人公の五代くんは第1話の時点で浪人生で18歳か19歳でした。気が弱く押しに弱く女性に弱く優柔不断で甲斐性がなく何かと間や巡り合わせが悪いですが、誠実で人から親しく振舞われるパーソナリティで複数の可愛らしい女性から好意を持たれます。絵に描いたようなラブコメの男主人公です。失礼、実際に彼は絵に描かれたラブコメの男主人公です。

そしてヒロイン、ヒロインの響子さんこそが男性向け青年誌に連載されたこの作品の要です。彼女はアパートの若く美しい新しい管理人として登場し、単行本一冊に満たないしばらくの間、まるで聖女のように描写されます。

その後に徐々に開示される彼女のパーソナリティは、物語の価値をリアリティに置く人々によって毀誉褒貶が相半ばする議論の対象となります。あるいは当時の男性たちが「理想の女性」像に響子さんを挙げすぎたのかもしれません。

1巻に登場した瞬間におそらく21歳だった彼女は、若く美しくスタイルが良く上品でセクシーな、そしてまるで何かの物語の最終回の後の世界を生きる女性、生き残ってしまったジュリエットであるかのように描かれます。しかし、回を追うごとに、慇懃だが嫉妬深く、独占欲が強く、短気で、しつこく、時に暴力的で、優柔不断で、利己的で、わがままで、いい加減な面が描写されます。
こう書き並べただけでも、一体どこにラブコメ史を代表するヒロインの要素があるのかわかりません。それはまるで魔女か、涼宮ハルヒのようです。

実際に彼女をヒロインたらしめているのは、その容姿の美しさでしかない、と言う人もいます。

生々しい人格の欠点を備えるヒロイン像こそが新しくリアルなヒロイン像なのだ、と言った人もいます。

こんなあざとく造形された人物像をリアルで魅力的だと讃えるのはチェリーボーイの戯言に過ぎない、と言う人もいます。

作者が女性だったことが、更にこの議論を混沌としたものにしました。
高橋もその辺りは自覚的で、作中の人物、例えばアパートの「おばさん」の一ノ瀬や、同じく住人でホステスの朱美に、傍観者として度々ヒロインの欠点を指摘させます。

傍観者としてではなく、恋愛事情の当事者としてこのことを指摘したのが、五代くんの教育実習先の女子高校生である八神です。彼女はこの作品で唯一と言ってよい、響子さんに明確な敵意を持つキャラクターとして、曖昧な態度を貫く彼女を「本当は五代先生のこと好きなんでしょ」と問い詰め、読者の前に彼女の本音を引きずり出します。

うる星やつら」のヒロインが宙を飛び電撃を放つ宇宙人である反動のせいか、作中人物が宙を飛ばないこの作品にリアリティを求める読者は少なくありません。また作中人物の言動をメタフィクショナルに見るか否かでも、評価は分かれます。

彼女が立派なヒロインでないと非難されるのは、あるいは「泥棒はまだできないけど、きっと覚えます。」と言い放つ一途さが足りなかったせいか、あるいは王蟲の大群の前に身を投げ出す自己犠牲の精神を示さなかったせいかもしれません。
彼女は徹頭徹尾、漫画のキャラクターで、彼女をチャーミングだと感性で感じることを理詰めで非難されても、まるで初恋相手を貶されているようで少々反応に困ります。この言い方を見る限り、リアルとフィクションの区別がついていないのはどうやら私の方のように見えます。この話題はもうやめましょう。

作中で7年前後の時間が経過し、実際に7年間に渡って連載された作品なので、リアルタイムで読んでいた読者は、万感の思いで物語の終盤と結末に備えただろうことは想像に難くありません。

後世に読む身としてはイッキ読みにならざるを得ず、10巻までの五代くんのモラトリアム・ラブコメから、エピソード「桜迷路」の前後からのみじめな描写、ライバルの三鷹さんが脱落した後の14巻から最終回にかけてのカタルシスを、ジェットコースターのように味わうハメになります。

明日仕事に行きたくなくなる類の精神ダメージを受けることは請け合いで、明日も仕事がお休みであることはまったくもって僥倖です。自分の脳みそに「響子さんが自分の恋人ではない」ことを納得させる時間が必要です。

五代くんが実際に響子さんより1日でも長生きすることを、真剣に祈るばかりです。