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あ、今日読んだ漫画

#GUNSLINGER GIRL 1~15巻【完】 読んだ(ネタバレ注意)

年末年始で新刊が発売されないので、過去に発表された名作を読み返します。
今日は「GUNSLINGER GIRL」です。

 

「そう言えばこんな噂を聞いたことがあるな」
「最近 子供の殺し屋を使う政府組織があると…」

作者の相田裕が1998年から同人誌で同名の作品を発表していたところを「コミック電撃大王」がスカウトし、同誌で2002年から2012年にかけて連載された漫画です。連載完結後、第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門を受賞しました。

私は全15巻の半ばほどが発刊された時期に、ネットで話題だったのでこの作品の1巻を購入して読みました。以降、最終巻までいわゆる「単行本派」として準リアルタイムにこの作品を読みました。

最初の印象は控えめに言って最悪でした。オブジェクトや背景は丁寧に描き込まれ、主人公の少女たちは可憐で、劇中何が起こっているか判別しやすい見やすい絵でしたが、頭身やデッサンが時に狂ったように見え、また男性キャラの顔がしばしば下手で、作者の画力が発展途上であると感じました。

そしてその内容、1巻の冒頭で多数のテロリストをP90で射殺したヘンリエッタが、その境遇に身を置くまでの短い回想シーンは、まるで美少女を必要以上に悲惨な目に合わせること、サディスティックであること自体が目的であるように私には見え、またその描写の過激さを誰かと競うために執筆されているようにも見えました。彼女は一家殺害事件の被害者一家の唯一の生き残りで、両親の死体の横で暴行を受け、左目を失い、右腕と左脚を切断され、そして自殺を望んでいました。

彼女の境遇は悲惨で悲劇的ですが、多くの物語がそうであるように創られた悲劇であり、それならば何もこんな悲惨な悲劇に創らなくてもよいだろうと思いました。またエンターテインメントである漫画として、金銭と引き換えに彼女の境遇を消費することを後ろめたく思いました。評論家の中にはそれこそが作者の狙いであったのだ、と語る人もいました。

シンプルに表現すれば、それはとても悪趣味だと思いました。

それでも読み進めたのは、単純にはヒロインたちが可憐であったこと、銃器を扱う漫画が好きだったこと、そして複雑には、責務に対してあまりにも些細な見返りしか手にすることができない少女たちが、記憶を消されているとはいえ、与えられた人生を真摯に全うしようとしていて、些細な幸福をもっとたくさん積み重ねて報われるところを観たいと思ったからです。平たく言うと、待っていればいつか作者が方針転換して、「ごちうさ」や「ゆるキャン△」のような癒し系の日常漫画になったりしないだろうか、と期待しました。

ヘンリエッタ。リコ。トリエラ。クラエス。アンジェリカ。ペトルーシュカ
本作のヒロインたちに与えられた名前であり、そして同時にお墓に刻まれた名前でもあります。

飲酒で酔って感傷的になった夜などは、私の部屋に飾ってあるショットガンを携えたトリエラのフィギュアを眺めながら、彼女たちの人生がなんだったのか、今でも私は時折り考えます。それは馬鹿げた話です。そんな心配をする暇があったら、漫画のキャラの人生の意義を考える自分の人生が一体全体なんなのかを私はもっと真剣に考えるべきです。

現代のイタリア、ただし架空戦記のようにその文化と社会背景を借りた架空のイタリアが舞台です。南北の分裂思想が進み、テロが頻発し、体制側とテロリスト達が血で血を洗う抗争を行うイタリアです。

彼女達は体制側の殺し屋として、テロリストを捕獲し、または射殺することが仕事です。時に野党の政治家の暗殺も行います。組織には「社会福祉公社」という冗談のようなネーミングがされています。

公社は、重犯罪の被害者であったり、両親に轢き殺されかけたり、自殺を試みたり、重度の障がいを持っていたりする、身寄りの少ないローティーンの少女の身柄を概ね違法に引き取り、人体実験を兼ねて身体を人工筋肉や強化骨格に置き換えた戦闘サイボーグに改造します。そして「条件付け」と呼ばれる洗脳によって彼女達の記憶を封印する代わりに、テロリストの殲滅に対する使命感や公社の職員への従順さを植え付けます。

「条件付けと愛情は似てるの どこまで自分の感情かわからない」。

彼女たちは平たく言うと洗脳や強化、治療の度に用いられる薬物によって脳にダメージを受け続け、記憶障害や五感の衰退の後、成人に達する前に寿命が尽きます。

まるでロボット三原則のようであり、仮面ライダーのようであり、またFSSのファティマのようです。SFチックな世界ではなく、現実のイタリアに近い社会を舞台にいたいけな少女を対象に描かれるそれは、クリリンの腕が切断されるシーンよりも一層残酷でグロテスクに見えます。

彼女たちは自身を管理する担当官と「フラテッロ(兄妹)」と呼ばれるツーマンセルを組みます。担当官との関係は様々で、ヘンリエッタに対するジョゼは兄のように、リコに対するジャンは道具の持ち主のように、トリエラに対するヒルシャーは教師のように、クラエスに対するラバロは父親のように、ペトルーシュカに対するサンドロは恋人のように接します。アンジェリカに対するマルコーは自暴自棄な世捨て人のように複雑です。

家族や恋人を爆殺されたジャンとジョゼのクローチェ兄弟の、テロリストの首魁であるジャコモ・ダンテに対する、職務を通じた復讐が縦軸として描かれ、ヒロインたちのまるで昆虫のように短命な人生を、どう生きてどう死んだかが横軸として描かれます。

しばしば描かれる彼女たちの日常パートは、彼女たちが殺し屋で、また死の影が付き纏っていることを知らなければ、まるで「まんがタイムきらら」の4コマ漫画のように他愛のない日常です。実際、この漫画は「コミック電撃大王」に掲載されていました。「よつばと!」と同じ雑誌です!

私は褐色の肌に青い瞳、金髪をツインテールにしたお姉さん肌の少女・トリエラがお気に入りだったので、彼女が生を全うし、ヒルシャーと幸福に結ばれることを願っていました。しかしストーリーの中盤で彼女たちのプロトタイプの寿命が尽き、トリエラが自らの短命と、担当官ヒルシャーの深い愛情を悟って「この人と一緒に 必死で生きてそして死のう」と独白したときに、それを諦めました。

最後に前述の二つの疑問について考えます。

彼女たちの人生がなんだったのか?
殺害したテロリスト人数のスコアでしょうか?社会をよりよく導く人物の生命を守り抜いたことでしょうか?もしくはテロリストの首魁ジャコモ・ダンテを捕縛し、更に黒幕をも捕縛するに至り、イタリアにつかの間の平和をもたらしたことでしょうか?それともトリエラが血を遺したことでしょうか?
いいえ、私は単純に、彼女たちが一生懸命に生きたこと、そのことに無上の価値があったのだと思いました。

そして、この作品は悪趣味だったでしょうか?
「いのちは闇の中にまたたく光」だからでしょうか?描かれなければいけない闇だったでしょうか?私は、わざわざ可哀想に創られ健気に生きるヒロインたちの物語を、わざわざ感動するためにこの漫画を読んだのでしょうか?そうかもしれないし、違うかもしれません。私にはよくわかりません。ただ、当初思った「悪趣味だ」という思いは薄れて、「ごちうさ」や「ゆるキャン△」のような癒し系の日常漫画にこそならなかったものの、この作品を読んでよかったと今では思っています。

 

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