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#少女ファイト 16巻 評論(ネタバレ注意)

「幾重のトスが打てる最後の春高が私のオリンピックなの」

未成年の学生スポーツで勝利のためにエース級の選手が怪我を押して出場し、活躍し消耗し一定の割合で潰れて競技キャリアを棒にふる。近年、夏の甲子園でも毎年のように議論になります。

漫画においても、スラムダンクの安西監督の数少ない瑕疵に数えられる最後の試合の桜木花道は言うに及ばず、最強主人公に無双させないための足枷として、怪我を押して出場する選手がドラマを生む作品は枚挙に暇がありません。増してやフィクションという名の嘘や誇張、ファンタジーも混ざります。

「槌家監督が教えてくれたのは
 怪我のリハビリ方法でもバレーの復帰の仕方でもない

 私に正しい時間の使い方…
 想定外のことが起こっても崩れない生き方を教えてくれたの」

甲子園にしてもスラムダンクにしても、ハンデを乗り越えて戦う選手の姿を我々はエンターテインメントとして消費して、それに「感動」というタイトルをつけて肯定する。学生スポーツの負の側面、暗黒面だと言ってもいいと思います。なので自分は怪我を押して頑張る選手の話は気をつけて読むようにしていて、今回も後ろめたさの言い訳の分、長文です。

槌家監督の過去と真意、三國会長の暗躍、黒曜谷のチームワーク、有栖川の言動、春高オールスター構想、サラの決意、しえの覚醒など、語るべきことはたくさんありますが、にも関わらずこの巻はなんと言っても怪我からバレーを離れリハビリを経て競技に復帰した朱雀のエース・寺沼に尽きます。

情緒的なのはいつものこととはいえ、デリケートなテーマなので作者も相当気を使って描いている気がします。

本人の意志なのは最低条件であって、それでも美談にしてはいけない、そうなった瞬間にそれを利用し悪用する者が現れるから。

と、頭ではわかって警戒していても、ちょっと読んでいて涙が止まりません。泣くと瞼がヒリヒリするので困るんですけど。

「もし今日でバレーの寿命が尽きたとしても
 昔みたいに自暴自棄になったりしない

 人生をあきらめないでいられるから
 私はまた新しいことに挑戦する」

彼女にとって、彼女の人生にとって、バレーとは一体なんなのか、なんだったのか。

「だからこの怪我を悲しいことだと決めつけないで
 わたしはやりきった 今とっても満足してるわ」

怪我の有無に関わらず、学生スポーツの選手の大半は卒業と同時に無名のまま競技を離れます。春高が終わってもバレーは続き、バレーが終わっても人生は続いていく。

身体を損ねてまで競技を続けさせることは悪ですが、一方で人生は怪我をしないためだけに存在するものでもなく。

もちろん怪我を予防する公正なルールが整備され、指導者によって適切に運用される仕組み作りは急務ですが、「膝と引き換えに今この瞬間に成し遂げたいことが私の人生にはある」という人間の意志や情熱とどう相対するべきかは、一漫画作品が答えを出すものではなく、読む者、観る者、指導する者、そしてなにより競技する者が各々で考えるしかないし、競技に対する愛情が深いほど考えるのをやめてはいけないんだと感じます。

「あきらめたくないなら問い続けろ
 自分にとってバレーの正体は何かを」

スポーツ漫画のようでいて、主人公の大石練とバレーボールを通じて登場人物たちの人生の一部を描きたい漫画なんだな、とあらためて。

「寺沼さんの最後のアタックは生涯忘れません
 わたしバレーを続けてきてよかったです」

彼女の最後のアタック、あの表情。ずるいわ。

 

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