ジャンプ+で『さよなら絵梨』(藤本タツキ)を読んだ。
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ちなみに冒頭、「こないだ中学生になった」主人公の誕生祝いケーキに「12さい」と描かれているのは、彼が飛び級である裏設定は作劇上の意味がないので、
・中1の満年齢を作者がうろ覚え(という作画ミス)
・ケーキを用意した人間が主人公の年齢をうろ覚え(という演出・伏線)
のどちらかだと思うけど、両方の可能性があって、単行本化されるまで判断する材料がない。
2022年4月11日(月)の0時に公開され、その時点で「公開終了まで29日」と表記されているので、ゴールデンウィーク明けぐらいまでは無料で読めると思う。
機を逃しても、おそらく夏頃に単行本化されるんだろうと思う。
自分は数えていないが読み切りと言いつつ200ページ超とされ、単行本一冊分のボリュームがある。
作中でキャラの口を借りて「敢えてそう描いたんだ」と言わんばかりに作者自らが多々この作品自体を論評しており、一般論としての評論については言い尽くされて「もう言いたいことがない」とさえ言える。
ちょっと自分のブログが炎上に対して予防線を張りまくる小心さを想起させて、読者が思っているほど藤本タツキは自信満々で作品を発表しているわけではないのかもしれないな、と少し思った。
椎名林檎の『ギブス』の歌詞に
だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない
という一節があるが、強いて自分の極めて個人的な解釈で言えば、この作品は
「写真になって古くなった彼女との美しい思い出に永遠にナルシスティックに耽溺していたい人間のエゴの話」
だった。
前置き
WEBの無料漫画の感想をなるべく書きたくない
話題になったWEB無料漫画について、特に旬のうちに書くことは、普段から正直あまり気が進まない。
別に作者のファンとは限らない無料の読者群は、有料コンテンツを購入した読者ほど作者にも作品にも優しくなく、また作品や作者のバックグラウンドに対する前提知識もまちまちだ。
b.hatena.ne.jp
と偉そうに書くが、藤本タツキを語る上で重要な「映画」について自分も詳しくなく、「ファイトクラブ」をさえ観ていない。
コメント欄はグラデーションはあれど、「信者」を頂点とする作者に好意的なファンと、「アンチ」を頂点とするそれらを冷ややかな目で見る層の両極が混在して荒れがちで、作品を褒めても貶しても、一部のエスカレートした反対勢力から喧嘩を売られることが起こりうる。
無料で裾野が広いぶん読者も玉石混合かつ多士済々で、祭りの近くを原付で爆走する暴走族のようにイキり散らかした感想を書いたら、実績と権威で戦車のように武装した本格派(作家とか現役プロ編集者とか大学教授とか)が横合いからやって来て轢き殺される事故が起こる可能性も少なくない。
作者の前作『ルックバック』については、WEB公開時点で書いた感想を寝かせて、単行本が出ても寝かせて、昨年の年末に
「今年面白かった漫画の話をするのに『ルックバック』の話を入れないわけにはいかないだろう」
と、メタの搦め手に逃げた無難でつまらない、感想にもなっていない感想にイヤイヤ書き改めてアップした。
aqm.hatenablog.jp
読者ごとの好悪はともかく、『ルックバック』が「すごい」ことは、発表から半年以上経ってからことさら私が言うまでもなく、みんな知っている。
konomanga.jp
難解?な作品の感想を書きたくない
本作は、スマホ撮影によるドキュメンタリー映画を制作する少年の、実生活と作品(作中作・劇中劇)が切り替わりながら進む。
ブコメでは梶井基次郎の『檸檬』との類似が指摘されたが、それに加えて自分は「胡蝶の夢」を連想した。
読者が「主人公の物語」だと思って読み進めたら実は「主人公によって編集された『作品』でした」という展開が繰り返され、創作批評に対するメタなテーマや作品全体の結末もあって、何が現実で何が虚構だったのか読者が疑心暗鬼になるような構成が取られている。
映画の体裁が「ファンタジーをひとつまみ入れたドキュメンタリー」であるだけに、その境界線はより、わかりづらい。
そしてその疑心暗鬼の答えは開示されず、解釈は読者一人一人に委ねられている。
無料でWEB公開されこれだけバズっている作品でありながら、共通の感想を語れない。
「わかりにくいヒントと正解」が用意された作品とはまた違う、読み手の数だけ解釈と感想が生まれることが予め織り込まれた作品で、性急に「正解」を求めがちなネットの有象無象の議論との相性は最悪だ。
anond.hatelabo.jp
「早い者勝ち」を狙うのでなければ、「お前の解釈は間違っており、よってお前の感想も間違っている」などと言われて恥をかきたくなければ、ネット議論の趨勢を見定めた上で、自分の解釈も十分に修正し熟成させてから語る方が安全だ。
そもそも藤本タツキ作品の感想をなるべく書きたくない
ブコメでも指摘があるが、私を含む一部の読者にとって藤本タツキはややもすると全肯定の対象となってしまっている面があって、公正な評価が可能なんだろうか? と疑問に思う。
「アバタもエクボ」という便利な割りに近い将来放送禁止用語になりそうなことわざがあるが、信者というものはたとえ凡作でも勝手にそこらじゅうに深読みの穴を掘りまくって、「面白い理由」をどこからか発掘し補完してしまう。ちなみに例えば私のこの記事自身がそうだ。
多数の「信者」「フリーク」のはしゃぎっぷりが、そうでもない層の目に冷ややかに映るのはネットに限らずよくある光景で、個人的にはダウンタウンがブレイクした頃、「松本人志の笑いを理解していることが教養であり文化人たる証である」かのように誰も彼もが必死に「俺にはわかる」アピールをしていたことを、少し思い出す。
「藤本タツキは教養」「理解できない人が可哀想」などと思い上がったことを口にしないよう気をつけたいと思うし、そんな祭り上げられ方は作者も本望ではないと思う。
それでもこの作品の感想を書く理由
ここまで
「WEB無料漫画の感想を書きたくない理由」
「難解?な作品の感想を書きたくない理由」
「藤本タツキ作品の感想を書きたくない理由」
を書き連ねた。
要するに、今この時期に『さよなら絵梨』の感想をブコメではなくブログに書くことは、「100字しかないから意図が正確に伝わらなかった」という言い訳すらも通用しない、私にとって割りと最悪の行動だ。
冗長な前置きは要約すると
「わかってて敢えて書くので、叩かないでください」
という意味なので、そのへん是非よろしくお願いします。
それでも感想を書こうと思った理由は、作品としては『ルックバック』の方が好きなのに、ある面で『ルックバック』より『さよなら絵梨』の方が自分に刺さってしまったからだ。
藤本タツキがこの作品に込めたかどうかもわからない電波を、受信してしまったからだ。
だからこれは感想というより、『さよなら絵梨』を読んで脳裏に浮かんだことを推敲せずに書き連ねた、ほとんど私の自分語りだ。
本当にマジでそのへん是非よろしくお願いします。
本題:『さよなら絵梨』を読んで思い出したこと
「編集」という行為が持つ功罪
主人公の少年が映画を制作するにあたって「編集」という言葉が繰り返しフィーチャーされる。
「編集」という行為の功罪については、視聴者・読者などの受け手の立場ですら、意識する機会は頻繁に起こる。「悪意ある切り取り」という言葉を一再ならず目や耳にしたことがある人もネットには多いと思う。
自分は「創作」と言われる行為をほとんどしない人間だが、それでも過去に自ら行う「編集」という行為の功罪について考えさせられた経験がある。
ずっと前、MMO(ネトゲ)をやっていた頃に、プレイ日記ブログをやっていた。
初めてのブログということもあり、最初のうちは画像をいっぱい貼りテキストをいっぱい書き、記事が長ければ長いほど楽しさが伝わるものだと思っていた。
そうやって書いているうちに、労力・読んだ人の反応・PV数などから否応なしに気がついた。
人間、面白さの本質が端的に手短に語られるコンテンツの方が、読みやすく、面白く、また見にこようと思う。
同じ出来事の同じ面白さを伝えるなら、字数は少ないほど良い。
自分のブログはまずテキストを添えることを廃し、次いでチャットのSSも冗長な部分はどんどんカットし、まるで『ひとりごっつ』の「写真で一言」のコーナーのように写真1〜2枚・チャットの切り出しをせいぜい5行分程度の最低限のボリュームに収束していった。
ブログを見にくる人々もネトゲ特有のハイコンテクストな背景を既に理解していることもあり、背景状況説明はスラングも交えて省略して、短ければ短いほど良かった。
プレイ中に大量に撮影した素材(スクリーンショット)に目を通して、「今日面白かったシーン」のストーリーを抜き出し組み立て、その「ストーリー」「演出意図」に都合の悪い素材、冗長になるだけの素材、意味をなさない素材、などの大半の素材はボツになり、HDDに貯まっていった。
途中で炎上したこともあってブログは「鍵垢」にしてしまったが、それでも100人単位の「フレ」にブログは好評で、細々ながらブログの更新は日々続いた。
が、たまにプレイ日記に登場してくれたフレからは「流れを捏造するんじゃねえwww」とツッコミがてら半笑いで抗議を受けることがあった。
簡単に言うと、短く端的に笑いを取りに行く上で、「登場人物本人にとっては重要だが私にとっては重要でないパート」を大幅にカットする、というようなことを自分は頻繁にやっていた。
半笑いで許してもらえたのは、「美味しくイジった」「悪意のない切り取り」であったことと、あとは友人関係を背景に甘やかしてもらっていただけだった。
ドキュメンタリーにおいて、起こった事実に対して「どこを切り取るか」という編集する者の恣意的な介在は厳然と、私のしょーもないネトゲプレイ日記だろうが、『戦争は女の顔をしていない』だろうが、そして『さよなら絵梨』の主人公が編集したドキュメンタリー映画だろうが、等しく存在する。
近年激増したと思われる、動画の編集をする人にはご理解いただけると思う。
事実であろうがNGカットは要らないし、アピールしたい趣旨に反する情報を入れるメリットも薄い。
かくて、『さよなら絵梨』の作中、体育館で上映された2編の映画においても、母親のモラハラシーンや絵梨の眼鏡や歯の矯正については、主人公の少年の演出意図によってなかったことのように編集される。
ここでの少年の演出意図は、ネットでよく見られるようなPV誘導・利益誘導・思想誘導ではなく、「観客を泣かせる」ことだ。
上映後も少年が編集を続けた意味
一度目の上映で観客たちの不興を買い、二度目の上映で観客たちを泣かせることに成功した少年は、その後も同じ撮影素材での編集作業を半生に渡って続ける。
ここに至って、彼の「編集」の目的は「観客の心象をどうこうする」ことすら眼中になくなっている。
一見、意味不明な行動だが、自分はその理由を理解し説明することができる。
思うに、彼はただ自分の前半生に起こった出来事の記憶に耽溺するための「後ろ向きの夢」を、より美しく美化し磨き続けていただけだ。
名士が晩年にだいぶ美化して盛った自伝を発行するのに似ている。
彼は膨大でそれでいて有限な映像素材から、少しでもより美しい物語を捏造することをライフワークとしている。
なぜ私がそう思うかと言うと、私も似たようなことをしていたからだ。
私は前述のネトゲで顔も名前も知らない女性と恋愛をした。
彼女は歳を取らず美しい容姿をしていた。ネトゲのアバターだったから。
私たちの恋愛は成就することがなかった。所詮はネット越しの恋愛だったから。
そして得てして成就しなかった恋愛は後を引く。
彼女がいなくなった後、私の手元にはネトゲで彼女と過ごしたシーンの膨大なスクリーンショット素材が呪いのように残された。
数年間、自分は膨大な素材を「編集」して物語に仕立て、彼女との思い出に耽溺して過ごした。
最近そうして過ごすことも少なくなったが、あれ以来、現実世界でも仮想空間でも恋愛感情を持ったことがない。
だから作者・藤本タツキの意図がどうあれ、自分は主人公の気持ちがよくわかるし、作者が『さよなら絵梨』と題した意図もよくわかる。
自分も編集してより読みやすくより美しい物語に仕立てた、誰に読ませるアテもない非公開のブログ記事に、同じようなタイトルをつけたから。
ここまで悲壮じゃない。
だいたいこんな感じ。
成長した少年が再び爆破した意味
最終的に少年が爆破した意味はなんだったろうか。
「彼が自分を束縛するものを爆破して自由になるための儀式であった」というような意見も見た。
とても理解できる反面、自分の脳内では正反対の解釈との間で喧喧諤諤の議論が交わされている。
「正反対の解釈」というより、ほとんど私の願望と言っていい。
末期の母が横たわる病院や、再会した絵梨が映画を観ているビルを爆破することによって、彼は「素材」がこれ以上増えることを拒絶した。
耽溺するための美しい思い出の物語の完成にとって、「新展開の素材」が増えてもそれは蛇足的なノイズで、邪魔でしかない。たとえそれが不老不死によって永遠の若さを持つ吸血鬼であっても。
あの爆破は、美しい思い出に耽溺して生きていくこと・未来ではなく過去に向かって夢を見ながら生きていくことを決めた者が、物語を固定して完成させるため、美しい夢を固定して完成させるために、不確定要素である未来と決別するものだったのだろう、と自分は思う。「ひとつまみのフィクション」によって。
モナリザの作者が、絵画の完成に至ってモデルを殺すような話。
あるいは解散した伝説のバンドに「再結成して欲しくない」と願うファン心理のような話。
だって一生に一度の恋の美しい思い出の相手に、望まぬ形で再登場されたら困るから。
だって現に、走り去り(本人主観で)爆破したおかげで、母親の最期の言葉を一旦は聞かずに済んだから。
だってせっかく編集した美しい過去に浸って生きる人間にとって、演出意図に沿ってくれない未来は邪魔だから。
これはエゴで、とても醜い心理だが、あの爆破は私にとってこの「後ろ向きに生きていくことの後ろめたさ」を吹き飛ばしてくれるものだった。
蛇足
自分の極めて個人的な解釈で言えば、この作品は
「写真になって古くなった彼女との美しい思い出に永遠にナルシスティックに耽溺していたい人間のエゴの話」
で、そんなような人生を送っている自分にとって、共感し心が慰められるものだった。
私の解釈・私の感想は私だけのものであって、他人にも作者にすらも共感してもらう必要を感じないが、自分はこの解釈にかなり偏執的に確固とした確信を持っていて、歴史上電波を受信して「神託を受けた」とのたまう狂人は、おそらくこういう心持ちだったのだろう、と思う。
おそらくこうした「俺だけは理解る」偏執的な解釈をする読者を生み出す力や技法、あるいは余白を持っていることが、現在の藤本タツキを巡る毀誉褒貶の核なのではないかと思う。
全員ではないにせよ、あの爆破はいろんな読者のいろんな何かを吹き飛ばしたんだろうな、と思う。
その上で。
40代のおじさんが残りの人生を老後と定めるのは珍しくもない話だと思うが、まだ20代と聞く作者がこんな話を描くぐらい、もし本当に私が思うような心境であるんだとしたら、
「女なんて星の数ほどいるし、生きてればそのうちいいこともあるぞ」
と、自分のことを棚に上げたチープで陳腐で上から目線で余計なお世話な助言が、頭に浮かんでしまう。あと焼き鳥屋行きたい。
これだけ非凡な作品を前に、また非才の身が天才を相手に、大変恐縮な話だが。
本当に、蛇足というものはろくでもない、とつくづく思う。
恥ずかしいし、このブログ記事も最後にかっこよく爆破できたらよかったのに。
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