#AQM

I oppose and protest the Russian invasion of Ukraine.

#戦争は女の顔をしていない 2巻 評論(ネタバレ注意)

漫画「ヨルムンガンド」は武器商人のヒロインが、世界中に武器を売り歩きながら「世界から戦争を消し去りたい」という野望を抱く物語ですが、その最終話のタイトルは

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「ヨルムンガンド」11巻より(高橋慶太郎/小学館)

「恥の世紀」という印象深いものでした。

 

このブログの記事は、独ソ戦に従軍した女性たちに、原作者アレクシエーヴィチがインタビューして原稿にしたものを、翻訳者の三浦みどりが日本語に翻訳し、群像社によって編集され、岩波書店によって表記を修正され、速水螺旋人の監修のもと、小梅けいとが漫画化して、KADOKAWAによって編集された漫画を、私AQMが読んで、その感想を書くものです。

企業を「一人」とカウントしても、独ソ戦で起こった事実から少なくとも75年の時間と8人もの人間の手を介した果てに書かれている文章で、果たして戦争の「真実」に対してどれだけ迫れるものでしょうか。私はとても疑問です。

原作もコミカライズも読むことなくこの記事だけを読んでも、おそらく何の意味もないでしょう。少なくともWEBで無料で公開されている分だけでも、可能であればコミカライズの1巻と2巻を、財布と時間と本棚のスペースが許せば岩波現代文庫版を読んだ方が良いと思います。

言語が堪能であれば原語版を読むのが一番良いのかもしれません。私にはそれは無理なので、コミカライズの1巻を読んだ後、原作の日本語訳の文庫版を買って読んでみることにしました。 奥付によると2020年2月27日の版ということになっています。

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コミカライズの1巻を読んだ後、私はネットでこの作品に対する様々な感想を読みました。その中には「インタビュアーである原作者を美少女のように造形した漫画家が許せない」との意見もありました。私はこの作品のチャレンジ精神を大いに評価していたので、「なんて瑣末でくだらない感想だろう」と呆れました。

が、その後原作を読み、それからは原作に対する大いなる解釈違いで、私にも監修の速水螺旋人と漫画家の小梅けいとに対して言いたいことが、もっと言えば原作者のアレクシエーヴィチに対しても言いたいことが、たくさん生まれました。

これはノンフィクションの戦争の話で、そうなることが当たり前のように思います。解釈違いが生まれるのも、言いたいことが生まれるのも、作品に対して自分の脳みそで考えた証で、人の数だけ解釈違いと言いたいことが生まれるはずで、それは美少女キャラが許せないのと等しく価値があるはずだと今では思います。

確かに美少女キャラは彼女たちの醜い行動を糊塗し、必要以上に読者の同情心を煽るもので、アレクシエーヴィチのまるで墓荒らしのような冷酷なジャーナリズムにそぐわないかもしれません。

 

言いたいことがたくさんあるといえば、8月に作画・監修コンビと、大御所・富野由悠季との対談インタビューがネットで公開されました。

ddnavi.com

歯に衣着せず厳しいようでどこか優しい、叱咤と激励が入り混じるいかにもな富野節でした。

対談の中で富野はいかにも戦争を知る世代のように振る舞い、小梅けいとに「戦争を知らない世代としてフラットな目線での作品作りを期待する」と繰り返し語っています。第二次世界大戦・太平洋戦争が終結した時点で富野は3歳で、戦争直後の影響を受けた日本の社会についてはともかく、少なくとも戦場を見てきたかのように語る資格は彼にもありません。

この「戦争を直接知らない世代のジレンマ」については富野の7歳下のアレクシエーヴィチも原作中で

またもや「男の理屈」が聞かれる。「あんたは戦争に行ったことがないからな」でも、それってかえっていいことなのかもしれないでしょ。わたしは激しい憎悪を知らないし、わたしの見方は正常な見方、「戦時の見方」ではないのだから。

「戦争は女の顔をしていない」より

(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著/三浦みどり訳/岩波現代文庫)

と愚痴っていて、一連のインタビューのやり取りはこれをなぞっています。

作画・監修の二人も原作を読んでいる富野もそれは当然承知しているはずで、私が思うにインタビューでの富野の偉そうな態度はこれを踏まえた、メディアと若い世代に向けた演技です。

 

今巻は1巻に比べて、エピソードが断片的で、原作者の主観の描写にも多くのページが割かれ、初見の読者がストレートに「感動」しにくい展開が続きます。

安い感動ポルノであれば、女たちは無垢で無謬で、戦争の一方的な被害者であって欲しい、1巻で見たように生命のために走り回る献身性を見せて欲しい、せめて戦争行為に罪の意識を抱えていて欲しいところですが、この2巻はそうはならず、戦争の生み出す複雑な利害関係やそれぞれの感情、人間の持つ二面性が顔を覗かせます。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

ソビエト連邦は内外に様々な矛盾を抱えた毀誉褒貶の激しい国家でしたが、少なくとも独ソ戦においてはドイツに一方的な条約破棄とともに奇襲先制され国土と国民の生命を蹂躙された立場で、復讐心と愛国心で従軍を志願した女性たちは「あのナチスドイツを自らの手で打倒した英雄的な女たち」と扱われても良さそうなものです。

が、現実はそうではありませんでした。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

戦場から社会に戻った彼女たちを待っていたのは、「悲惨な戦争を想起させる、結婚相手にしたくない、3K労働に従事したキレイじゃないイタい女」として彼女たちを避ける男たちと、

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

「戦場に男漁りに行っていたんだろう」という、戦場に行かなかった女たちの見下した視線でした。

恋柱かよ。

あるいはそれは自分が持てなかった「勇気」を持つ彼女たちに対する嫉妬の裏返しだったのかもしれません。

戦後のソビエトのそうした空気を敏感に察したであろう彼女たちの多くは、戦場で体験したこと、戦場に居たことを、隠し、沈黙するようになりました。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

たまに口を開いた女の話は、「大局観に欠ける、センチメンタルでお涙頂戴の作り話」として一笑に付され、彼女たちは更に貝のように沈黙することになります。

そこをこじ開けにかかったのが原著者・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチでした。

 

こう書くと、彼女たちはいかにも社会からの抑圧で沈黙していたように見えます。

でも、それだけだったでしょうか?

現に、現著者の原稿の出版が拒否されるシーンも度々登場し、彼女たちの話が抑圧されていたことは見て取れます。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

でも、本当にそれだけだったでしょうか?

 

平和な現代の私たちはブログやSNSにほとんどの場合「本当のこと」を書きません。それは大抵の「本当のこと」は書いたら非難され炎上することを知っているからですが、それはネットの抑圧であるのと同時に、未熟な人間が考え感じ行う「本当のこと」はしばしば間違っていたり他人を傷つけたりすることがあり「本当のこと」を書くことが自らの醜い人間性を暴いて形にして歴史に残してしまうことを知っているからです。

 

子どもだった頃、私はTVなどで戦争経験者が「今の若者には戦争経験者のような苦労が足りない」と語る度に、

「戦争を始めた、戦争を止められなかった、戦争に負けた恥の世代が
 戦争を繰り返させないための諫言ならともかく、
 『お前らは苦労が足りない』とはどういうことだろうか。
 なんでこんなに態度がデカいんだろう。彼らは恥を知らないんだろうか。」

と思っていました。思っただけで口にすることはありませんでした。口にすれば誰かを傷つけ、誰かから憎まれるだろうことぐらいは、当時の私も知っていたので。

どうか怒らないでください。バカな子どもの「本当のこと」、口にしなかったただの戯言です。

今の私は、社会がもっと複雑で、戦争を止められなかったことが必ずしも彼ら全員の罪ではないこと、我々の世代が戦争を経験していないことは別に我々の手柄でもなんでもないことを知っています。

 

この平和な現代の日本のSNS上でさえ、それでも醜い人間性が発露して毎日のようにぶつけ合われているというのに、1940年代の対ナチスドイツ戦時下で志願して従軍した彼女たちが行った所行が、「女性だから」という理由だけで清廉潔白であったとは私には思えません。

社会の抑圧の以前に、彼女たちは戦場で行った自らの残酷で愚かな所行を恥じていて、沈黙している理由の第一義はそれではないのか?

ジャーナリストとしてそれらを冷酷に、墓を暴くように、彼女たちの恥の記憶をこじ開けにかかったのが原著者・スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチでした。

 

アレクシエーヴィチが興味があるのは、彼女たちがスラスラを語る英雄的な武勇伝でもなければ、可哀想なお涙頂戴話でもありません。

アレクシエーヴィチが興味を抱き、記録に残し、歴史に残したいと思ったのは、彼女たちが墓まで持っていくつもりの懺悔、後悔していること、狂気に染まったことなどの「本当のこと」、人間としての恥の歴史でした。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

敵兵の死体を馬車が踏む瞬間の、人間の骨が砕ける瞬間の音と衝撃が、復讐心が満たされたのか「嬉しかった」と語るご婦人。こんな不気味なことを語る彼女を結婚相手に選ぼうとしないことは、果たして罪でしょうか。

なので彼女たちやその夫たちは、アレクシエーヴィチのインタビューをとても警戒し、私たちがSNSで炎上しないように注意するように、戦争の話をとても慎重に言葉を選んで語ろうとします。

彼女たちの名誉のために、彼女たちの周辺や彼女たち本人が、国家のそれと同じくらいとても分厚い鎧を着込んでインタビューに臨むことを、原作でもアレクシエーヴィチは度々愚痴っています。

このコミカライズでも著者の苦悩は取り入れられていますが、読者が期待する戦場体験談とはかけ離れたこの描写によって読者が離れることを危惧したのか、これでも取り上げられる量は少なく感じます。この真実に迫る難しさ、恥を歴史に残すことの困難さもまた、戦争の一部と言っていい重要な要素のはずですが、コミックのテーマとしてあまりに地味で、また作品の意義をも損なうものだと考えられたのかもしれません。

こうして「真実」は、「どこを切り取って語りたいか」という、体験した本人たちのバイアス、原作者のバイアス、コミカライズ作家のバイアス、そして私のバイアスを通じて形を変えていき、あなたがこのブログを読む頃には本来語られるべき趣旨はもう一欠片も残っていないのかもしれません。

 

アレクシエーヴィチはさすが後にノーベル文学賞を受賞するジャーナリストだけあって、実に冷徹に彼女たちの隠している「本当のこと」を暴こうとします。

アレクシエーヴィチは彼女たちを拷問したり、金で懐柔したり、ウォッカで酩酊させたりする代わりに、一日中世間話と身の上話に付き合い、時には彼女たちとともに泣いて、どうにかして彼女たちが油断して「本当のこと」をポロッと口にする瞬間が訪れるのを粘り強く待ちます。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

そうして膨大な時間で得られたほんのわずかの「本当のこと」をアレクシエーヴィチは原稿にし、時にはインタビューした相手に原稿案を送付して本人のチェックを待ちます。

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「戦争は女の顔をしていない」2巻より(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/小梅けいと/速水螺旋人/KADOKAWA)

そしてしばしば、それを語った本人によって「なんでこんな話を原稿にするのか」と激怒されます。

彼女たちからしたら、本当は話すつもりのなかった、オフレコのつもりで油断してポロッと口にした「本当のこと」ばかりを文字起こしされて、「私の名誉を破滅させるつもりか」とびっくりしたことでしょう。

 

コミカライズ1巻の帯コメントで富野由悠季は「女たちは美しくも切なく強靭だった」と語り、先に挙げたインタビューでは

近代戦でどのように女性が蹂躙されているか。それは男に犯されるような蹂躙ではないのよね。戦争そのものに蹂躙されているんです。

と語っていますが、私がこの作品を読んで感じたのは「女たちもまた何かを蹂躙した」ということ、彼女たちが軍人である限り、戦争の一部として被害者は同時に加害者でもあったという、考えたらとても当たり前のことでした。

富野由悠季は同じインタビューで1巻の帯コメントについて

この本は公に出版されるものですから、お世辞で書きました。この言葉の意味には、すべて裏があります。正面切って、褒められたと思うな!

とも語っており、彼は基本的に「本当のこと」を直截には語らず、聞く者に自分で思考させようとすることをいつも心がけている、面倒臭いクソジジイです。

 

この作品は原作者が

戦争のことを聞いただけで、それを考えただけでむかつくような、そんな本が書けたら。戦争のことを考えることさえぞっとするような、そういう本を。将軍たち自身が吐き気をもよおしてしまうような本を。

「戦争は女の顔をしていない」より

(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著/三浦みどり訳/岩波現代文庫)

と呪いのように志ざし、そのために行われたインタビューに基づくノンフィクションで、基本的に戦勝国であったはずのソ連赤軍の戦場における恥を、個人レベルで暴くものです。

原作には未だコミカライズされていないこんな一節があります。

赤ちゃんの声が聞こえれば全員が死ぬことになる。三十人全員が。おかわりでしょう?

決断が下された。

指揮官の命令を誰も伝えることができない、しかし、母親は自分で思い当たった。布切れを包んだ赤ちゃんを水の中に沈めて、長いこと押さえていた。赤ちゃんはもう泣かない。静まりかえっている。わたしたちは誰も眼をあげることができない。母親を見ることも、お互いの顔を見合わすことも

「戦争は女の顔をしていない」より

(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著/三浦みどり訳/岩波現代文庫)

戦勝国の作家が勝利した戦争を描いてノーベル文学賞というとても名誉な賞を受賞したにも関わらず、アレクシエーヴィチは故国ベラルーシを石もて追われるように、欧州を転々と放浪しています。旧ソ連は、もしかしたらインタビューされた女たち自身も、ピラミッドを発掘される古代エジプト王の霊のように、この作品の存在を「恥の歴史」として呪っているのかもしれません。

そうなることにある程度自覚的であったにも関わらず、この「恥の歴史」の記録の筆を止めなかった原著者は、真にノーベル文学賞にふさわしいジャーナリストであると私は思いました。

不満はあります。いくらでもあります。自分が漫画家だったらこうは描かない!と思うことはたくさんあります。真剣に読めば読むほど不満はあって当たり前です。

ですが、ココ・ヘクマティアルと新しい世界を旅することが叶わず、未だ「恥の世紀」を生きる私にとって、このコミカライズの試みは非常に意義深いものだと、認めないわけにはいきません。

 

戦争は女の顔をしていない 2 (単行本コミックス)

戦争は女の顔をしていない 2 (単行本コミックス)

 

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