小学四年生女子の藤野は毎週の学年新聞で4コマ漫画を掲載し、クラスメイトにチヤホヤされて調子こいていた。
が、担任に言われて4コマ掲載の枠を一つ、不登校の同級生女子・京本に譲ったところ、京本は圧倒的な画力の作品を掲載。藤野は京本に対抗しようと努力するも敵わず、不登校の京本と出会うことのないまま小学校卒業を迎える。担任の依頼で卒業証書を届けに京本の家を初めて訪れた藤野は…
というガール・ミーツ・ガールから始まる、絵を描くことに青春と人生を費やした2人の少女の、青春もの。
「チェンソーマン」などで知られる人気作家による150ページ足らずの中編で、発表されたジャンプ+の閲覧数記録を更新したという話題作。
終盤の展開が京アニの事件とそれに対する作者自身の心象をモチーフにしていることが明らかで、その事件の描写のされ方が一部で物議も醸しました。
京アニの事件については、当時自分は何を語ればよいのか全然わからなくて、こんな記事をアップして、
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そのあと人生で初めての十万円単位の寄付をして、対外的にはそれだけでした。
弔意の表明と金を出すこと、それしかできませんでした。
2年の時間がかかりましたが、事件に対して藤本タツキが事件と心象を作品で語った、という側面が、この作品は強いです。
こうして自分の心象を作品に昇華できる漫画という表現手段を持つ漫画家という職業に就いている皆さんを、「ルックバック」を読んであらためてとても羨ましく思いました。
あるいは漫画家も藤本タツキに対して同じように思うのかもしれません。
「ルックバック」のような作品を描くことは誰にも可能でしたが、「ルックバック」を描いたのは藤本タツキでした。
「20代で『ルックバック』を描く作家がいるなんて絶対に許せない!」と思っている漫画家がもしかしたらいるのかもしれません。
心象の表現をあまり言葉に頼らない作品なので、いちいち言葉で語ることがどうにも野暮に蛇足に感じられ、ストーリーの話をあまりする気になれません。
漫画読みゃわかるようにできてるのに、俺が「泣いた」とか、そういう話、要ります?
単行本の9月の発売日に買ったんですけど、感想ブログに何を書いても野暮で蛇足な気がして先延ばしにしているうちにもう年末になってしまったので、あきらめてストーリー以外の話をします。
過去作「ファイアパンチ」「チェンソーマン」でわかるとおり、大変な映画好きで造詣が深いことで知られる漫画家ですが、映画の「画」、漫画の「画」、「画(え)」の力を「伝わるはずだ」ととても強く信じている作家なんだな、と思います。
特に感情の表現において、大切な場面ほどモノローグやセリフなどの言葉の量を少なく、代わりに映画で言うところの俳優の演技に当たるキャラクターの表情や動作、構図、「背中」などで伝えようとする演出。
ネガティブな疑問や自問自答はセリフやモノローグで言葉にされるのに、それに対する答えは言葉にされることがありません。
「キャラの感情を漫画上で一度言語化して受け取った読者が言語から感情を再構成するよりも、せっかく絵があるんだし、言語を通さずに感情をそのまま絵で読者に届けた方が伝わらない?」
と真顔で思っていそう。
近年はモノローグや決めゼリフの詩的で情緒的な「言葉の力」で読者の感情をエモーショナルに動かす作品が隆盛する中、この作品では重要な感情や思考が言葉で表現されない分、想像と解釈の余地は深く広く、良し悪しやレベルの高低ではない意味で、商業漫画を別のステージに連れて行こうとする試みにも見えます。
読者としては末々が楽しみですが、仕事のハードルをこんな風に上げていく同業者がいたら、私は嫌です。
この先、漫画を描いて発表していく上で、経済的な動機は既に薄くなっているんじゃないかと思われ、あるいは表現者として好きに描いて、私を含むマスから「難解な作家」と評価されるようになっていく、現在がその分水嶺なのかもしれないな、と思ったりもします。
ジャンプ系の林編集が唯一の凧の糸で、そこが切れたら風に任せてどこかに飛んでいっちゃいそう、というか。
やー、どこかに飛んでいっちゃう奴が「ルックバック」なんて言わねーか。
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