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#天幕のジャードゥーガル 2巻 評論(ネタバレ注意)

1213年、ペルシア(現イラン)で奴隷として売られていた少女・シタラは、幼いながら見目が美しく賢かったことから、特に奴隷商人の「上流階級の付き人に育てては」との推薦を受け、温厚な学者一家に引き取られる。

学者だった当主は亡くなっていたものの、温厚な学者一族の家柄と心優しく教育熱心な夫人・ファーティマの庇護の元、彼女に仕え学問を学び穏やかに8年の時が流れたある日、カタストロフが訪れる。

チンギス・カン率いるモンゴル帝国の西征により彼女が暮らす都市・トゥースも侵略され陥落し、シタラの生活は一変。虜囚として遥か東方の帝都に連れ去られる。

『天幕のジャードゥーガル』2巻より(トマトスープ/秋田書店)

シタラは復讐心を胸に秘めつつ、自分を庇って斬殺されたファーティマの名を名乗り、虜囚の身から「知」を武器にモンゴル帝国宮での立身出世を図るのだった。

という、史実ベース、史実の人物の伝記フィクション。志のスケールが大きく、「大河」と言って良いかもしれません。

ja.wikipedia.org

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主人公の「数奇な運命」をエピソード取捨選択してテンポ良くグイグイ読ませる展開や、シンプルで見やすい画風も相まって、60年代の劇画ブーム前の「古き良き少年漫画」の香り、ぶっちゃけテーマも相まって手塚治虫の『火の鳥』が現代ナイズされたような印象を持つ作風。

『天幕のジャードゥーガル』2巻より(トマトスープ/秋田書店)

チンギス・カンが死に、権勢がその皇子たちに引き継がれたモンゴル帝国。

第4皇子トルイの妃に侍女として仕えていたシタラは、侍女を解雇されると同時に、第2皇子チャガタイの宮廷に密偵として忍び込むことを密命されるが、途上で捕えられた成り行きで、即位して新たな皇帝となった第3皇子オゴタイの第6皇后・ドレゲネの、審問を受けることとなる。

このシタラとドレゲネの運命の出会いが、モンゴル帝国の運命を大きく狂わせていく…

『天幕のジャードゥーガル』2巻より(トマトスープ/秋田書店)

という2巻。

男たちが武力で中原を平定しつつある大モンゴル帝国の中枢の内側で行われる、女たちの戦い、みたいなテイになりつつありますが、人権が未発達の弱肉強食の中世代の物語なので、21世紀に読むと違和感というか、価値観の齟齬を一瞬感じるのが面白いです。

時代ものは大抵そうなんですけど本作は(まだ)権力者同士の争いではなく、「武力のモンゴル帝国」というシステムと対峙する、「(ナチュラルに差別される階層としての)奴隷の女」である個人が主人公であるだけに、「まだ人権の概念がない」点を余計に感じます。

シタラやドレゲネの戦いは「弱者連合の戦い」であっても「弱者のための戦い」ではなく、「女の戦い」ではあっても「女のための戦い」ではなく、「人間としての戦い」ではあっても「人権のための戦い」じゃないんですよね。

思い出の人々や過去の自分のために、怒りで復讐する。でも自分が売られたことは哀しんではいるけど、怒りじゃない、っていう。

奴隷として買われた家で優しくしてくれた人々とか、人身売買同然で嫁いだ先の部族で優しくしてくれた人々とか、現代だったら「奴隷として買われた」「人身売買同然で嫁いだ」とか、初手の段階で全否定されるような展開なんですけど、「そういうもんだ」と受け入れて本人も努力した上で、大事にされて優しくされて割りといい暮らしをして幸せで、恩義も感じていて、

『天幕のジャードゥーガル』2巻より(トマトスープ/秋田書店)

だからこそ優しくしてくれた人々のための復讐としての戦い、「人権が未だ無い時代の、人間としての戦い」なんだな、という。「個人の戦い」ではあっても「全体主義との戦い」ではないんだけど、「システム(モンゴル帝国)と個人の戦い」ではある、という。

現代の価値観との、その齟齬や違和感をそのまま描くことに何の意味があるかというと、シタラやドレゲネは復讐者であっても「正義の味方」でも「人権の守り手」でもないので、

『天幕のジャードゥーガル』2巻より(トマトスープ/秋田書店)

「システムを構成する人間」に対しては、読者の感情移入を阻害しすぎない範囲で、相応に酷いことをやっちゃうっていう、予告でもあるのかな、とちょっと思ったり。

「システムを構成する人間」の個人としての慈しみや優しさも同時に描いている作品なので、ちょっと怖いですよね。

 

 

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