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#君は放課後インソムニア 14巻 【完】 評論(ネタバレ注意)

進学高の1年生、不眠症に悩む少年と不眠症に悩む少女が、昼寝場所にしようとした学校の天文台で出会うボーイミーツガール。

ラブコメっつより青春恋愛日常もの。まるで美化された過去の思い出であるかのようにピュア度高め。

ヒロインの病気が作品全体に重たく影を落とし、読者にストレスも与え続けてきた作品。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

「離婚と向き合って子どもに語ること」から親が目を逸らして避けたせいで、子どもが両親の離婚に責任を感じたり、「自分が悪いから捨てられた」とトラウマを感じたりしてしまって、その後の人生の重大な選択を歪めてしまうことがあることは、もっと周知されて良いと思う。

主人公二人に思い入れが深いほど、読んでてジワジワと精神的にダメージが入り続ける、ちょっと意地悪な作りとも言えます。

気がつけば主人公二人、イサキとガンタも高校3年に。

今巻で高校を卒業、そして作品完結。最終巻です。

Amazonの商品紹介には

「アニメ化、実写映画化された
 大ヒット青春物語、ついにハッピーエンド。」

と盛大にネタバレが書かれています。

「バッドエンドだったら最終巻を読みたくない」

と思っていた私のような読者がたくさんいたせいかもしれません。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

「メメントモリ」と言い、「死は誰にでも訪れる」「死は万人に平等」と言います。

本当に平等でしょうか?

「死」の解釈は人ぞれぞれかもしれませんが、私のとってのそれは、自分の物語が終わり、世界から断絶し、時間がそこで止まって置いていかれることです。

当然、目を逸らしたい。私は「いつかくる死」から目を逸らし、見つめるときも薄目でぼんやり眺めることで心の平穏を保っている、心の弱い人間です。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

持病による度々の入院と手術を繰り返す本作のヒロイン・イサキはそれが許されず、彼女と恋に落ちたガンタもまたそうでした。

イサキに向かって「死は誰にでも訪れるから」「死は万人に平等だから」と言う気に私はなれませんでした。

本来、「若い」ということは死について考えることを遠ざけることが許されるべきで、また「もう十分生きた」と言うには早すぎるからです。

今巻中でイサキが「健康なみんなはずるい」と泣きじゃくったように、「死」そのものは万人に平等でも、より死に近いところでの「生」を強制されることは、まったくもって平等ではありません。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

ハッピーエンドであることに、もちろん越したことではありません。本当によかった。

でも誰でもそうなれたわけでも、そうなれるわけでもありません。

でも本当に価値があったのは、二人が最後までに荷物を降ろさなかったことでも、病気から目を逸さなかったことでもなくて、荷物を降ろしたりまた持ち上げたり、目を逸らしたりまた見つめたりしながら、「生きよう」「一緒にいよう」ともがく姿だったんだろうと思います。

『世界の中心で愛を叫ぶ』と同じような話で、同じような結末だったら意味がない、とずっと思いながら読んできた作品ですが、読み終えてみると「ハッピーエンドかどうか」の天秤がどちらに傾くかは、それほど重要ではなかったんだよな、という気がしています。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

という余裕のコメントできるのも、ハッピーエンドを読み終えた後ゆえでしょうかね。悲しいラストだったらきっと全然違う感想書いているか、もしかしたら感想を書いていなかったかもしれません。

イサキとガンタを通じて、本来私が目を逸らしたいはずの病気と死を見つめ、その上で未来・将来・人生を考えることを強いられる、とてもしんどい、精神的にラクをさせてくれない青春恋愛漫画でした。

私は中年になって少年時代より「死」について考える時間が増えましたが、それでも幸運なことに比較的健康に過ごしています。

でもこの先、病気や怪我を得て「死」について考える時間がより増えた時に、この漫画でイサキとガンタが理不尽に死に近い生を強制される中で、それでも「生きよう」「一緒にいよう」ともがいた姿が、あるいは自分の人生の杖のようなものに、なってくれるかもしれないな、という予感がしています。

『君は放課後インソムニア』14巻より(オジロマコト/小学館)

卒業、おめでとうございます。

次回作も楽しみにお待ちしています。

 

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