#AQM

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#星屑家族 上下巻 評論(ネタバレ注意)

現実とは少し違う進化を遂げた、パラレル現代の日本社会。

少子化や子どもへの虐待などの社会問題を解決すべく、日本は子作り・子育てを免許制とし、夫婦が「人の親たるにふさわしいか」を国の「扶養資格適性審査」で測ることとした。

審査は「学力・一般教養審査」、「性格資質審査」を経て、家庭に2週間送り込まれる「扶養審査官」との同居による実地審査を、最終審査とした。

『星屑家族』下巻より(幌山あき/KADOKAWA)

扶養審査官である一人の少年が「次の仕事」として送り込まれた夫婦の家庭で告げられたのは、「扶養者失格にして欲しい」という奇特な要望だった…

という、ディストピア社会SF。

上下巻でコンパクトな上に同時発売で読みやすくて良いです。

少し前に、こんなことを書いたんですが、

「毒親」の概念がポピュラーになったせいか「家族」をテーマにしつつも「母親を捨てる(関係を切断する)子ども」の印象的なシーンがいくつかの作品で目についたな、と思います。

aqm.hatenablog.jp

「毒親」というテーマはすっかり社会問題として定着というか、認知された感がありますね。

現在の尺度で言えば、星飛雄馬もアムロもカミーユもシンジくんも親は広義の「毒親」で、ただ時代性で「そういう親もいる」と糊塗されていたんですが、「セクハラ」、「パワハラ」と同じく、糊塗していた時代性が剥がされて、「親には親の事情がある」で免罪されなくなったのが今、という感じはします。

それに合わせて、かつては物語でロールモデルとして「超克の対象」だった親が、「捨てる対象」に…いや、アムロが既に親を捨ててたし、別に免罪なんかされてなかったな。

家庭という密室で各々行われていることなので、景気の良し悪し以外、時代性と個別事情はあんま関係なくない?という気もします。他人の家庭の中は見えないし。

『星屑家族』上巻より(幌山あき/KADOKAWA)

現実では、その密室群の幾つかの中で行われるひどい虐待が途切れることなくニュースで暴かれ、「人の親を免許制に」というのはある程度おそらく誰しもが一度は発想する考えではあり、モチーフとして作品化されたのもおそらく初めてではないんじゃないかと思います。浅学でちょっとパッと作品名が浮かんでこないですけど。バース・コントロール社会とかはよくありますね。

ちょっと切り口が異なりますが、在って欲しい家族像を、血縁ではなくSF設定の中に緩く求める、という意味では、これとか。

aqm.hatenablog.jp

本作はニュースの視聴者のように、人間に懐疑的でシニカルな視点で展開と描写が進み、描かれるのは

「免許制の下にあってさえも、ロクでもない親はおり、ロクでもない子どもを育てる」

という、現実と変わらない、人間に対するある種の諦観です。

『星屑家族』下巻より(幌山あき/KADOKAWA)

第一話で提示されたテーマに多くの読者が騙されますが、この「システムがあろうがなかろうが人間のロクでもなさは変わんないんだよ」という諦観をベースに「でもね」を語りたいだけで、この作品は「親の免許制」という社会的な思考実験に正面から取り組んだ作品では、ないんです。

「親の免許制」は単なる舞台装置で、作品のフォーカスは登場人物をめぐるドラマと人生に移っていき、既知のパターンに基づいて予想した通りに作品が展開しないことに憤るタイプの読者や、漫画に少子化問題の解決策・特効薬を期待する読者には、激怒されるタイプの作品。

そもそも「扶養審査官の子どもたちがどこから用意されているのか」という第一に浮かぶべき疑問に対して、「たぶん孤児がなってるんだろう」という漠然とした納得で社会、というより人間が受容することは、在り得ないんです。

作中に描かれているとおり、理想像を持つ人間ほど「人に向かって言ってはいけないことを悪意の自覚なく言ってしまう」から、システムとして保ちません。

『星屑家族』上巻より(幌山あき/KADOKAWA)

週刊連載作品を読み慣れていると、

「世界観設定(箱庭)を構築した上で、キャラクターを放り込んで、ある程度自律的に物語が動く」

という作りの作品に慣れてしまうし、実際この作品も世界観強度をもっと補強した上で、筒井康隆の『家族八景』のように、

主人公がいろんな家庭をたらい回しにされながら描いて長期連載化する選択肢もあったはず(『家族八景』と同じく主人公のメンタルが長く保たなそうですが)ですが、この作品はそうはせず、

「粗々の着想から描きたいドラマがまず生まれて、ドラマを実現するための舞台装置として、対処的にSF設定が整えられた」

ように見える作品。

『星屑家族』下巻より(幌山あき/KADOKAWA)

この作品の社会SF世界観のSF強度の低さや非合理性に対する指摘は、

「倒される予定の悪役の非人道的な振る舞いを非難する」

ことに似ているかもしれず、おそらく作者の興味はそこにあんまり無いんじゃないかなと思います。なのでそこのポイントへの興味が強い読者にとっては、興が削がれる要因にもなり得るだろうと。

この作品でどう扱われたかは置いておいて、そもそも「ディストピア管理社会」のシステムは、多くの物語において個人(主人公)との衝突の上で破壊や脱出によって解体されることが「お約束」ですし。

『星屑家族』上巻より(幌山あき/KADOKAWA)

「でもね」の結末は、「終盤までの、人間に対するあのシニカルな視線はなんだったんだ」というぐらいの、甘くて優しい、人間を信じた結末。

社会SF考証的にも人間観においても、不整合でデコボコした作品で、「テーマ放棄」、「ご都合主義」、「トンデモ展開」との非難は免れないかもしれませんが、全てはこの甘くて優しい結末を描くためだったのかと思えば、自分は作者の描きたかったことを好ましく思うし、「SFの正しい使い方」だったという気がします。

システムや人間が不整合でデコボコしてんのは現実で慣れてますし、現時点ではまだ確かに「SFでなければ描けない物語」だろうと。

『星屑家族』下巻より(幌山あき/KADOKAWA)

最終回の女医の存在が、読んでて勝手にちょっとミスリードされかけたんですけど、「ああ、あの…」って自分が気づいた瞬間が、特に良かった。

読み終わってみると、作品タイトルが、また。