#AQM

あ、今日読んだ漫画

FSS (NT2023年7月号 第18巻相当) 評論(ネタバレ注意)

ファイブスター物語、連続掲載継続中。

「第6話 時の詩女 アクト5-2 終わりの始まり Both3069」。

扉絵コミで13ページ。

  

他の号はこちらから。

aqm.hatenablog.jp

以下、宣伝と余談のあとにネタバレ情報を含んで論評しますので閲覧ご注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(扉絵)

アーリィ・ブラストのパートナー、モラード・ファティマのマルターのカラー設定画+解説テキスト。

 

(本編)

デコース以下、バッハトマ勢は巴を残して撤収。重傷のまま現場に放置されたヨーンとパルスェットの救援にアイシャとブラフォードが駆けつけるが…ヨーンの敗北が星団中に報道され各所で各々がその報を受け止める中、ナイアスは皇帝暗殺共謀の罪で逮捕・護送されていた。

「(略)」(ニュータイプ2023年7月号より)

 

 

 

(所感)

軽めの話題から、徐々に重ために。

ナイアス

ナイアスが逮捕されるのは、基本的には

①元老院から捨てられ売られた時

②元老院そのものが失脚した時

のどちらか。

バリエーションとして

・ナイアスを逮捕し処分する勢力のボスは誰か

・(ナイアスが救われるとしたら)救うのは誰か

 

泉興京巴

何のために現場に残ったのか?

 

今更ながら思えば、先月号で巴がパルスェットの胴を刺したのは不自然だった。

ただ人質にするだけであれば、膂力で騎士に劣るファティマを刺す必要がなく、逃亡を防ぐためであればアレクトーの時のように足の腱を斬れば済む。

ファティマ嫌いの巴には捕虜とした敵ファティマを無用に傷つける悪癖(前科)があるとは言え、不自然・不合理だった。

あれは今月号で「こう」なるための不自然な挙動だったし、「こう」なることを予見していたデコース(と作者)の指示だった故の不自然さと考えるのが妥当か?

 

今号、巴が現場に残った理由は、普通に思い浮かぶのは

「ヨーンの救出(もしくは遺体の回収)に来る勢力の『紋』を確認するため」。

駆けつけたアイシャとブラフォードの衣服にはミラージュ・マークはないものの、「四つ菱」と「ミラージュだんだら模様」が付いている。

加えて、巴の「前科」の張本人であるアレクトーと、カステポーのヴァキ・シティで(カイエンの失言がきっかけとは言え)正体を見破ったアイシャがいる。

 

デコース

トドメを刺さなかったのは、ヨーンをより苦しめるため。

 

「人生は面白いほうがいいだろう?」

の意味、一つ目の可能性。

ヨーンが苦しみの果てに再び自分に復讐しにくるのを、再度返り討ちにしたい。

これはまぁわかる。(コマの表情にはそぐわないし、なんか浅いけど)

 

二つ目の可能性、ヨーンに復讐され殺されることを期待している。

だとしたら人生に対するある種の達観ではあり、(我々もデコースがもうすぐ「黒騎士ではなくなること」を知っていることもあり)コマの表情にも合う気がするが、作中でデコースが突然達観する理由やそれに当たる描写がない。デコースが騎士人生に飽きているような話があったっけ?

「俺を倒しに来い」は、強いて言えば「最強すぎて退屈」なキャラがしそうな発想ではあるけど、デコースは特に最強ではない。

逆に、カイエンが死んでもデコースが剣聖に叙せられることはなく、実際に剣聖を継いだマドラにはボコられ、騎士として

「自分は剣聖になれない」

という限界を知った絶望?

それとも、どんなに暴れても一番リベンジしたい天照とラキシスに相手にされない絶望?

そんな絶望の仕方するタマだったっけ?

 

「人生は面白いほうがいいだろう?」

のもう三つ目の可能性は、前のコマ、ミースの回想シーンとの関連で、

「どこまでやればエストの精神が崩壊するか試している」。

もともとファティマ嫌いだったデコースが、「正しい使い方」で最強ガーランドの最強ファティマの精神を防止プログラムごと壊せるか。

「星団最強のファティマですら、説明書どおりに使っても俺にはついてこれなかったぜ?」

というやつ。

他人の人生を弄ぶ、悪役らしくはあり、「元ファティマ嫌い」との辻褄も合う。

逆に言うと、今の状況は「素のエスト」にとっては、精神崩壊するに足る状況だと言えるし、前号で自分はエストを「人間として見たら人間のクズ」と書いたけど、バーシャ(シーク)モードはエストの精神だけでなく、読者のヘイトから「記憶がないからしょうがない」とエストを守るためのメタ装置としても機能している。

 

四つ目の可能性。

前号の自分の説で言えば、作者はデコースにその場その場の行き当たりばったりで悪役っぽい雰囲気のことを言わせているだけで一貫性なんかないので、デコースがなにを考えているかなんて、考えるだけ無駄である。

 

五つ目の可能性。

ただ単にエストとその「元カレ」の若造に「自分の方が上だ」と見せつけたいだけ。

要するにある種の嫉妬。

エロNTR漫画の悪役なら動機はこれで十分な気がするが、『FSS』の黒騎士のデコースとしては少々ショボすぎるので、たぶんナイ。

 

六つ目の可能性。

若く見どころのある騎士を、ただ鍛えている。

くだらない。強騎士はみんなカイエン化するってか。

フリーターや平時のAP総騎士団長だったカイエンと違って、デコースは戦時国の騎士団長で相手は敵性の騎士(未満)で、ヨーンを鍛える理由がない。

ヨーンを鍛えるヒマがあったらジィッドでも鍛えてろ。

 

アイシャ

後述するが、『FSS』が始まる前から「こう」なることは予見され、予見されていることを作者自身も知っていた中で描かれたアイシャが、「こう」なることを予見できなかったとするのは無理がある。

星団を代表する強騎士に対して復讐心に燃えて血気盛んで、でもGTMを持たない騎士の出来損ないの若造に、ファティマだけを与えれば、巻き添えになったり盾になったりでファティマが「こう」なることは十分予見できた。

読者と違って「主人公補正・ヒロイン補正でなんとかなるだろう」という希望的観測をもつ理由も、アイシャにはなかった。

そもそもGTMを持たない騎士のなり損ないにファティマだけを与えて、どうするつもりだったのか、何をさせたかったのか。

「パルスェットに情が湧いて、情に負けて、そのうちヨーンが騎士になる」

と思っていたのであれば、「結果的に」それは叶ってしまうかもしれない。

アイシャはパルスェットを「道具」「奴隷」「家畜」として見事に使いこなした。

 

それなのにアイシャが珍しく、泣きそうな顔でヨーンに謝っている。

アイシャの謝罪には、ジョーカー星団の社会システムと個人の矛盾が詰まっている。

読んでて辛い今号のエピソードで、「彼女」の笑顔すらも読んでて辛かったけど、自分にとってはシアンの人間らしく悼む姿と、アイシャの人間らしく矛盾に満ちた苦渋の表情が救いだった。

 

ヨーン・バインツェル

今更にして思えばバーシャを失った後のヨーンには4つの選択肢があった。

①騎士となり剣とGTMとファティマを得て、デコースにリベンジする

②「力持ちの一般人」としてミラージュ騎士団とファティマのサポートを得てデコースにリベンジする(勝てるかもしれないし、負けても助けてもらえるかもしれない)

③「力持ちの一般人」として独りでデコースにリベンジする(そして死ぬ)

④力を捨てて市井の一市民(物語的には世捨て人)になる、もしくは自決する

本来、①か④が選択肢だったが、ヨーンは中途半端な③を選ぼうとし、アイシャがねじ込んでさらに中途半端な②になり、結末も②になった。

①③④だと「こう」ならなかったが、アイシャがねじ込んだ②故に「こう」なった。

だからアイシャが謝っている。

結果を知っていれば、ヨーンは①か③か④を選んだだろうと思う。

そして今月号に至ってヨーンに残された選択肢は①か④だけになり、ヨーンが①を選ぶことを我々は知っている。②を踏み台に。

その後に、④を選ぶのかもしれない。

 

ファム・ファタール

ja.wikipedia.org

彼にとってのファム・ファタールは2人になったんだろうか、それとも「運命の一人」が上書きされたんだろうか。

カミーユで喩えたら

「フォウにかまけてる間に、見守って支えてくれてたファが…」

みたいなもんだけど。

バーシャを取り返したって「めでたしめでたし」にはならないし、デコースを倒したって時間は巻き戻らない。そのこと自体は実は前から変わらない。

一方で、大事な人を喪っても人生は続いていく。物語においても、現実においても。

だから今はそんな気分じゃなくても、ヨーンがこの先それでも幸せになれるのか、なれないのかは、今はまだわからない。

『FSS』はカイエン、ムグミカ、コレットの死、以来、長い間いわゆる「善玉」キャラが死ななかった。その間に現実でもだいぶ時間が経ち、いろんなことが起こった。

現在の永野護が「大事な人を喪った人間」の一人のその後をどう描くのか、注目したい。

 

サラブレッド

競馬の、先日の日本ダービーで、出走馬がゴール直後に心不全で死んだ。

news.netkeiba.com

サラブレッドは

・人間社会の都合のために

・人工的に生産され

・生産された目的や人間社会の都合に沿って、あるいは振り回されて生きる

・当然、人権も自由もない

という点、また馬の歴史が

「戦争で人間の、人権のない相棒だった」

点で、『FSS』のファティマととてもよく似ている。

「騎士」は本来、馬に跨って戦う戦士のことだ。

自分はダビスタ2の頃、ナリタブライアンの全盛期ぐらいから競馬やサラブレッドが好きだし、『ウマ娘』にまつわるコンテンツも好きだ。

ので、サラブレッドを可愛く思うし、彼ら彼女らの人生ならぬ「馬生」から物語性を見出してそれを美しく思うし、彼ら彼女らが傷ついたり死んだりすれば心が傷み可哀想だと思う。

同時に偽善だとも思う。

競馬のレースがなければスキルヴィングもサイレンススズカもライスシャワーももっと長生きできた。競馬がなかったらそもそも彼らは生まれていなかったかもしれないけど。

スキルヴィングやサイレンススズカやライスシャワーが、生まれてレースで事故死することと、生まれてこないことと、どちらが幸せだったのか、選ぶ自由があったら彼らはどちらを選ぶのか、自分はわからない。

戦争が在る世界に生まれて戦争で戦死すること、戦争が無い世界で生まれてこないこと。

ダムゲート(マインド)コントロールされない状態で訊くことができていたら、「彼女」はどちらを選んだだろうか。

「平和な世界に生まれて平和に暮らす」選択肢が与えられないこと、そのことこそが、そもそも狂っているのではないか。

 

「兵器(メカ)と美少女(エロ)」

以下、AQMの「兵器と美少女」の歴史観。

「兵器と美少女」は80年代のオタク文化の勃興の折りに、既存や当時の作品群から

「男の子の二大大好き要素」

 として発掘された。

当時のオタク文化の愛好作品群の中心にはアニメ界の巨人・富野由悠季と宮崎駿がいたが、彼らは自分の作品の、よりによってその二つの要素だけが、そこまで欲望にストレートにオタクに注目され発掘されるとは思っていなかった。

終戦を3〜4歳で迎えた宮崎・富野が描く戦争はモチーフに過ぎず、美少女ヒロインは商業上の要請でしかなく、作家としてメインで書いたはずのテーマは「人間の尊厳」「生命の尊厳」「人類と地球の、在るべき未来と在るべきでは無い未来」だったはずなのに、オタクは「兵器と美少女」というパーツをメインに受け取った。

以来、富野と宮崎のオタク嫌いが始まった。

彼らの弟子筋の庵野秀明や永野護などの作家たちもオタクの例外ではなく、富野・宮崎のメインテーマや精神性は継承しつつも、作風は時代の要請もあり、師匠たちよりも更に「兵器と美少女」にフォーカスしたものになった。

 

富野由悠季の、ファティマへの嫌悪

以前、

「永野護が『エルガイム』の設定にファティマを入れたら富野由悠季にボツにされた」

話を書きましたが、

aqm.hatenablog.jp

「富野由悠季は、ペンタゴナワールドを永野護にくれてやった」

という話を見聞きしたことがあるでしょうか。

実は書籍でソースがあります。富野由悠季自身による文章。

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)

 

『MAMORU MANIA』という本に、富野由悠季が寄稿したコラム?エッセイ?

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)
マモルマニア

マモルマニア

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本自体の著者は、井上伸一郎。写真の左の人。

『FSS』初代編集担当、「ニュータイプ」初代副編集長、2代目編集長、後に角川書店(三代目法人)社長、KADOKAWAグループ副社長などを歴任し、現在はフェロー。

映画『ゴティックメード』のプロデューサーも担当。

要するに永野護のブレーンでプロデューサーの人。

 

富野はこの本に寄稿していますが、そのコラム?のタイトルと書き出しがこちら。

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)

 

(中略して)こうも続く。

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)

『FSS』が始まる前から、同じくファティマを批判し否定する立場だからこそ、その魔性に囚われたヨーンの軟弱を直感的に予見し喝破している。なんだこのジジイ。

 

富野由悠季が書いていないことを、AQMの所感と想像で勝手に付け足します。

『エルガイム』、その放送枠の先輩の『ダンバイン』、『ザブングル』、後輩の『Zガンダム』、『ZZガンダム』、いずれもおそらくおもちゃメーカーのスポンサーの要請で、ロボットアニメにおいて「主人公機の乗り替わり」が当たり前になりつつあった。

「メカ」が壊れたり、性能不足になったりすると、主人公は最新の高性能機に乗り換える。

そんな時期に永野護が「メカ化した人権を持たない戦闘少女」をしつこく提案してくる。

富野由悠季は

「『少女が壊れたり性能不足になったら乗り換える主人公の物語』の時代の到来」

を予見して、そのグロテスクさにゾッとしただろうな、と想像します。

ファティマは『ウマ娘』とは違う意味での、言わば「サラブレッドのヒト化」、「美少女の家畜化・道具化」です。

もっとシンプルに「美少女の奴隷化・兵器化」と言ってもいい。高性能に創り、自我を洗脳して戦争させる。

 

グロテスクなディストピアとそこで生きる人間を描くことは伝統的なSFの使命の一つなので、そうした世界を永野が描くこと自体は悪いことでは無い。

怖いのは、(80年代に「兵器と美少女」を選んで発掘したオタクのように)「ファティマ世界観」を麻痺した読者が無批判に受け入れてしまう可能性があること。

今月号で「こう」なったことを嘆き悲しむ『FSS』読者は、富野の目には「競馬を肯定しつつサラブレッドの夭折を悲しむ競馬ファン」と同じく見えているんじゃないか。

「戦争は愚か」と言うテーマを、「戦争はかっこいい」とセットでしか描けなかったことに忸怩たる思いを抱えている富野だからこその、

「お前ら凡愚が『そうなる』その背中を押した、その自覚や後ろめたさはないのか」

と。

プロセスはどうあれ、結果的にヨーンは剣を取り、より高性能でエストに対抗できる「黒騎士に勝つにふさわしい」ファティマに乗り換える。それが『FSS』。

我々はその時、「ヨーンが成長して一人前になってようやく勝ててよかった」などと思うんだろうか。

ここまでAQM(「兵器と美少女」大好き)の勝手な付け足し。

 

富野の文章は、まったく別の文脈で「永野に対する大衆の評価」に呆れ返った末に、こう続きます。

『MAMORU MANIA』より(井上伸一郎/富野由悠季/TOYSPRESS)

 

80年代中盤開始コンテンツの思い出

ここからいきなり他作品、『アルスラーン戦記』などのネタバレが入るので、原作小説の第二部を未読で、今後読むつもりの人は離脱してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『アルスラーン戦記』原作第二部のネタバレをします。いいですか。

 

子どもの頃、『おしん』も『小公女セーラ』も嫌いだった。

「ヒロインがひたすら可哀想」のセンセーショナリズムで人目を引いているだけに見えて、

「あんなものは御涙頂戴の『かわいそう見世物』であって、エンタメでも物語でもない」

と子ども心に思った。

『アルスラーン戦記』の原作小説も大好きで読んでいたけど、第二部の前半でヒロインのエステル(エトワール)が苦心・苦難の旅の果てに報われることなく死んで、読むのをやめた。

自分の目には彼女の死が、物語上の何の意味もなく「片付けるように」死んだように見えた。

それ以来、田中芳樹の新作小説を読むのをやめた。

何が自称「皆殺しの田中」だ、バーカ。

「彼女」のそれは、エステルの死よりは物語に対して意味があるように見えるし、なによりも『おしん』や『小公女セーラ』や『アルスラーン戦記』でエステルが死んだ時よりは、自分も大人になったはずで、創作に対する受容性も成長しているはずだ、と思う。だから来月も『FSS』を読む。

なお、

・『おしん』1983年 放送開始

・『小公女セーラ』1985年 放送開始

・『機動戦士Zガンダム』1985年 放送開始

・『アルスラーン戦記』1986年 刊行開始

・『ファイブスター物語』1986年 連載開始

と、『おしん』の影響下で80年代中盤開始の「可哀想ヒロイン」コンテンツの系譜があるように感じるのは、たぶん気のせい。

今なら、『アルスラーン戦記』をラストまで読めるだろうか。

 

「彼女」に

「ファティマとしての幸せ」は在ったのかもしれないけど、自分は彼女に人間として幸せになって欲しかった。

 

 

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