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#対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~ 6巻 評論(ネタバレ注意)

全寮制のお嬢様学園の高等部に入学してしまった、お嬢様の皮を被った2人の格闘ゲームオタクが出会ってしまったガール・ミーツ・ガール。

「お嬢様×格ゲー」ということで、『ゲーミングお嬢様』との類似やパクりパクられ疑惑などもありつつも、作者同士が仲良く対談なんかしたり、そもそも「ハイスコアガール」が先じゃねえか、って話もあり、仲良きことは美しき哉。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

前作『柚子森さん』でおねロリ百合を描いていたいたりして、少女をフェティッシュに百合チックに描写するのが特色で、似たテーマを描きつつも『ゲーミングお嬢様』とはまた違っていて、棲み分けというか、どちらも楽しく読めます。

全寮制のお嬢様学校で人目を偲んで日夜腕を磨く4人の女子高生ゲーマーが、福岡で開催されるオープン大会に見参。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

今巻は全編、勝ち進んだ白百合様と、残りの人生をすべて格ゲーに捧げる女子小学生"女児先輩"の対戦を、対戦開始から決着まで。

同時に大会編終了。

格ゲーの3セットマッチを1試合、頭から終わりまでやるだけの内容で、およそ構成やバランスを普通に考えたら、まだ6巻しかない漫画作品で丸一冊かけてやるような内容ではありません。

読者が読みたいと思ってたものはコレではないでしょう。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

当初から予定していたプロットとそのボリュームなのか、描いてるうちに作者の興が乗ってこうなってしまったのかはわかりませんが、作者が「描きたい」その熱量が読者の予想を上回ってしまった結果、

「読みたかった以上のものを読まされた」

と思わされてしまいます。

百合の定義は人によってブレブレなので迂闊なことを書くと怒られるんですが、おそらくこの巻を読んだ多くの読者が、この作品・この巻は紛れもなく「おねロリ百合」だと思ったのではないかと思います。

作者が大好きな「おねロリ百合」「特攻の拓」「格ゲー」が、6巻にしてようやくひとつに溶け合ったかのような。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

モニターを介して交わされる、格ゲーの3セットマッチ1試合に込められた、濃密な「肉体言語」。

孤独だった二人のヒロインが、暗闇のような人生の中で初めて「同族」に、同じステージで遊び合える「敵」に出会えた狂喜。

『機動戦士ガンダム』でアムロとララァの邂逅のシーンはだいぶアクの強い映像ですが、動く絵と音楽と、省略の美を良しとする富野脚本、なにより「ニュータイプ同士の共感」という言葉が要らないコミュニケーションによって、初見の視聴者・幼い視聴者をややもすれば置いてけぼりにし、その出来事の価値が伝わりにくいものでした。

本作は、動かない絵と鳴らない音楽の代わりに、これでもかという「後方腕組み彼氏ヅラ」たちの熱い解説、モノローグというよりもはやポエムなヒロインたちの心理描写。

本作の今巻を読んで、

「あの瞬間のアムロとララァの交感は、こういうことだったのかもしれないな」

と少し思いました。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

「洗練された暴力」を競技化した格闘技、それをゲーム化した格ゲーに捧げる人生、下品で暴力的な言葉の応酬。

それに相応しく暴力的な、漫画というよりは「名場面」と「名ゼリフ」「名ポエム」をただ交互に叩きつけてるだけような、禍々しく美しい誌面。

作者の「描きたいシーンがある」「描きたいセリフがある」が強烈に伝わってきます。

ヒロインたちが作中、

「もう戻れなくなってもいい」

と思ったように、自分は

「もうこれで最終巻でも自分は文句は言わない」

と思いながら読みましたが、作品は次巻に続きます。

アムロとララァに「置いて行かれた」シャアがいたように、この作品の本来の主人公・黒髪お下げの彼女は完全に置いてけぼりです。

『対ありでした。 ~お嬢さまは格闘ゲームなんてしない~』6巻より(江島絵理/KADOKAWA)

どーすんの、この娘w

 

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