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#ヴィンランド・サガ 27巻 評論(ネタバレ注意)

面白い漫画読みたきゃこれ読んどけば鉄板、11世紀前半の北海・ノルウェー海を舞台にした時代漫画。まだ人権とかない時代の話なので戦争・海賊・虐殺・略奪・奴隷などが苦手な人は回れ右。

狂戦士だった若い頃から解脱して不戦・無剣・非暴力って「バガボンド」と似てんだけど、畑耕してるうちに作者が帰ってこなくなったあっちと違って続きが出るって素晴らしい。

故郷の村でグズリと所帯を持ち、子をもうけたトルフィン。毎晩、戦士時代に殺した亡霊たちの悪夢にうなされながらも、現実では仲間を募っていよいよヴィンランド開拓計画を具体化させていた。入植にあたり参加希望者にトルフィンがつけた条件は一つだけ。それは…

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

大雑把に分けると戦争編、奴隷編、を経て開拓編ですが、権謀渦巻き戦乱を舞台にしたアクション活劇だった戦争編の頃と比べると、求められる強さが「暴力の力量や技巧」から「あきらめないこと」「忍耐」「他助」にシフトした感があります。

無事ヴィンランドに辿り着き、現地住民とのファーストコンタクトも良好、と開拓が順調な様子が描かれますが、懸案・不穏を複数抱えていて

・トルフィンが禁じた剣(暴力)を手放せないメンバーがいる

・開拓した土地を巡って結局メンバー内で(言い)争いが起こっている

・現地住民が友好から敵対にシフトする予兆がある

・史実で開拓が持続しなかった(数年で撤退した)とされる

今後、「物語」としてこの辺どう描かれていくのか、まだ不透明です。トルフィンの没年もWikipediaでは「?」となってるしね。

「武器よ、さらば」もテーマの一つですが、そもそもこの開拓そのものというか「欧州人が新大陸にコンタクトすること自体がどうなんだ」とも取れる描写もあって、なかなか難しいです。

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

ファーストコンタクトする現地住民がいる時点で、「(誰にも迷惑をかけない)未踏の地」ではなく、程度の差はあれど現地住民からしたら「侵略者」とまではいかなくても「侵入者」ではあるわけで。

今巻では、船で8日の距離の「兄弟」ともいうべき入植地・マルクランドから人間が消失。無人となったマルクランドには土地中にウーヌゥ人の大量の矢が降り注いだ跡があるものの、その他の破壊の形跡もなく、死体や血痕も残されていなかった。

が、これを契機にヴィンランドでは、開拓団とウーヌゥ族との関係における安全保障論が本格的に勃発。

相互の9割の住民が平和的な共存共栄を望む中、相互の1割の住民の猜疑心によって、平和な関係は壊されようとしていた。見かねたヒルダは…

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

軍備と安全保障の問題は21世紀に至る今日まで、答えが出ているようにも、出ていないようにも見える問題で、作中でも教科書のように議論が繰り広げられます。

必ずしも教条的なばかりでもなく、それぞれのキャラを活かして賛否両論、議論のポイントを押さえつつ、漫画として面白く読める「お話」になっています。

安全保障の問題の建前論の裏側、政治的な権力闘争の道具として利用する「ぶっちゃけ」まで見せて、とてもエキサイティング。

どうしても現実に引き付けて考えさせられますが、究極的には人間の生物としての「質」が変わるか、権威を伴う「裁定者」が必要なんですかね。

要するに、作中議論の時代から21世紀の今日に至るまで、人間の生物としての「質」は変わってないし、権威を伴う「裁定者」は未だいない、という話なんですが。

読者感情としてはヒルダさんに共感してしまうんですが、難しいのは読者である21世紀の我々も結局、正しいわけでも答えを持っているわけでもなく、それでいて、

「平和のために平和の敵を殺す」

が、史上の多くの戦争の引き金になった「(多くの場合において)間違った答え」であることも同時に知っていますし。

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

開拓民・先住民の双方の武装論派も間違っており、ヒルダも間違っているのだとすれば、指針としてトルフィンが頼りになるとことなんですけど、

「修羅を経て聖人になりかけのようなトルフィン」

の瑕疵も、徐々に浮き彫りになってきているような気がします。

トルフィンが真に「平和第一主義」なのであれば、ヴィンランドの存在自体が新たな火種を生む可能性を踏まえて撤退判断も視野に入れるべきで、その「ポイントオブノーリターン」は刻々と近づいているように見えます。

あるいは、もっと「人の居ない所」を求めて北極海で野垂れ死ぬべきでした。

そうしない、トルフィンにとって何か「ウーヌゥ人の平和な暮らし」より大事なものがあるんだろう、と考えるとトルフィンを「平和主義の聖人」扱いをするのも何か違う気がしてきています。

ウーヌゥ人との交流が目的で出発したわけではなかったはずだし、逆に極端な話、ヨーロッパの文化(食事・建築・服飾・耕作・武器)を捨ててウーヌゥの文化に溶け込んで暮らす選択肢だってあるはずなんですが。

その辺の「漫画(フィクション)の無理」のツケを、どうオチをつけるのかな、と。

もう一つ、トルフィンは経験から武勇と暴力に長けているが故に、暴力を甘くみているところがあって、

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

このシーンで徒手で相手を制圧することを想定していましたが、平和主義からメンバーに剣を捨てさせている以上、斬られて死ぬべきでした。

「俺なら対処できる」

はメンバーに暴力を捨てさせる理由になってないし、徒手でも強いトルフィンには、自分や家族を守るために武器を隠さずには居られない、凡人の気持ちがわからない。

狙われたのがトルフィンではなくイーヴァルが剣を隠していなければ、例えば狙われたのがトルフィン以外の開拓メンバーの子どもであれば守れずに死んでいたし、預言者の老人がそうする可能性は在った。

史実で失敗して撤退したとされるこの開拓の行く末の描かれ方のキーは、その辺かな、と思ったりします。

そもそも政治も漫画も「間違ってなさ」競争が主旨でもないですし。

あ、あと、マルクランドに降り注いだ大量の矢はなんか「人間に向けて射ったもの」じゃないっぽい感じもするけど、なんなんでしょうね。ネズミ害(ペスト?)なら家屋に火をつけて燃やしそうな気もするし。

『ヴィンランド・サガ』27巻より(幸村誠/講談社)

あ、自分たちで「侵略者」っつっちゃったよw

どうせ同じく戦争になるなら、ヨーロッパに帰れば良いのでは…そうしないのは「勝てそうな相手と戦争して奪いたい」からのように見えてしまう。

いずれにせよ、時代的にトルフィンたちがやらなくても他の誰かがやるだけの、歴史の流れの中の瑣末な話、と言ってしまえばそれまでなんですが。

読んでこういうことを色々考えさせられるのは、なかなか得難い漫画作品。

史上、「平和な侵略」って在ったんですかね。

「文化的侵略」「経済的侵略」が平和かっつーと、それも微妙だしな。

 

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