ボロアパートで暮らすヤニねこは猫耳で美少女だったが、ぐーたらでだらしなくて下品で臭くて汚いヤニカスだった。
そんな彼女の、ぐうたらでだらしなくて下品で臭くて汚くて可愛くてちょっとエロい日常。
という、Twitter発のショート漫画。
かつて自虐・他虐のための蔑称だった「おたく」や「腐女子」がそうなったように、「クズ」という自虐・他虐のための蔑称が
「(愛称としての)自称・他称」
として特にネット界隈でカジュアルになりつつあるような気がするんですが、それを象徴するような漫画。
ルックスがおっさんだったらたぶん売り物になりませんが、ちょいエロ猫耳美少女であることで商品になったというか、
「見た目さえ美少女であれば、どこまで許されるか」
という「おっさんの美少女(※ケモナー)擬人化」の実験みたいな。
受け入れられているのは、ルックスの愛らしさ故なのか、自分の内なるクズ性の共感なのか。
「マイルドなノワール」というか、ある種のクズ文学というか、原義の意味での「カタルシス」というか。クズと文学は昔から相性良いですしね。
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「ヤニカス」ネタ以外のクズネタ要素として、うんこネタ・おならネタ・ちんこネタ・火事ネタwww やたら何かが燃えます。
今巻も、恒例のゲスト漫画家による1ページ漫画寄稿コーナーを収録。今巻は冬目景の描いたヤニねこが見れます。
「いかがなものかと思うし、こうなりたくはないが、
自由で、やりたい放題で、羨ましい」
というのが、ヒロインのヤニねこと、あとメタにはこの作品に対する感想の共通する大きな公約数の一つかとは思います。
「他人の目を気にしないブレない自分を持ってる」的な。
でも自由でやりたい放題に見えても、ヒロインが作中で、作品がメタで、「やってはいけないこ」とはあるんですよね。
「自由の枠」の面積の広い狭いはあっても、境界線はきっとどこかに在って、形が違うだけというか。
ヒロインにとっては獣人仲間や大家などの周囲の人間に本当に見捨てられるような言動がそれでしょうし、この作品にとってはもしかしたら
「『ヤニねこ』らしさを読みたくて読んでいるのに、違うものを読まされた」
と読者に思わせることかもしれません。
作品自体、SNSのバズという「他人の目」で世に出た作品ですしね。
本当に世の中の全員から嫌われても己がクズを貫き、誰一人からも読んでもらえなくても作品を創り続ける、という、周囲の期待に対する裏切りがもたらす孤独な営為が「自由」ということなんだろうな、などと益体もない思春期のようなことを、たくさんの漫画家の先生たちからの寄稿ページを読みながら思いました。
まあ、そうなったらもはや「作者にとっての他人」である自分には関係のない話だし、そもそも「誰にも読んでもらえないものを描けない」のは商業メジャーでは当たり前なんですがw
漫画は今巻も可愛くて汚くて馬鹿馬鹿しくて面白かったです。
自由の面積が広そうで羨ましくも相変わらず臭そうで、こうはなりたくない。
匂いの伝わらない漫画で読むぐらいがちょうど良いw
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