国王軍と魔王軍が衝突する世界。
国王軍の王女にして第三騎士団の団長・姫は、意思を持つ聖剣エクス(ツッコミ役)と共に魔王軍に囚われの身となった。
戦局を有利に導くべく、魔王軍はあらゆる手を使って敵の幹部である姫から秘密の情報を引き出そうとする…
という、ファンタジー世界を舞台にしたゆるーいコメディ漫画。
タイトルにも作中のセリフにも「拷問」という物騒な単語が踊りますが、中身はストレスなしのギャグコメディ。半分は実質グルメ漫画。
あとはもう黄金のワンパターンの手を変え品を変えの繰り返し。牧歌的で微笑ましい馴れ合いの世界。登場人物が全員なにかしらポンコツです。
ワンイシュー・ワンパターンですぐ飽きられるはずの定型フォーマットをあの手この手でバリエーションを持たせることに血道を上げる作風。
毎話すべての登場人物の言動が本末転倒なのに、全員が本末転倒であるが故に調和してしまっていて「その手があったか」「そんなのアリなのか」「一体なにを読まされているんだ」と驚きと唸りと笑いで迎えられる作品。
「ワンパターンか」と言われれば「ワンパターンだ」と答えざるを得ないんですけど新規性を持ったバリエーションは豊かで、
「新規性を持ったバリエーションが豊かならワンパターンではないのでは?」
「ワンパターンってなんだ?」
ってなります。「予定調和」ではあるんですけど。
そうは言っても「拷問」ネタも無限ではないわけで、キャラが増えた分、各キャラの持ちネタ(定番ネタ)や新ネタなどの「拷問以外」のエピソードの比率が、1巻当初と比べるとだいぶ増えている気はします。カウント調査したわけではないですけど。
最近、ジムでエアロバイク漕いでる時のお供に、スマホで北方謙三の『水滸伝』を再読してました。
いまは続編の『楊令伝』の再読に入ったところ。
下手な漫画より(失礼)面白くて続きが気になって、かつ長大で時間泥棒なので困ります。
『姫様拷問』も当初は敬遠していたぐらい、拷問描写が苦手で読みたくないんですが、北方版『水滸伝』シリーズは、ハードボイルドが持ち味の作家の歴史(戦争)小説、ということもあって、諜報戦に伴って拷問シーンが度々登場します。
ビジュアルを伴わない小説なのでなんとか読めている、という感じですが、作家の「拷問哲学」「拷問の美学」とでもいうのかな。
拷問をする側の心理描写が昏くねちっこく、変態的というかどこかSM的・官能的で、ある種「文学的」とでもいうのかな。文学ですけど。
「俺は、おまえに会うことが愉しみになってきた。
おまえも、俺の足音が聞こえると、嬉しくなるだろう。
今度こそ、殺して貰える。そう思うだろう」
(中略)
「俺は、おまえになったような気分だよ、盧俊義。
責めているのに、痛いし、苦しい。
こんなものかな、責めるというのは」
(『水滸伝 十二 炳乎の章』より(北方謙三/集英社))
される側・する側の「心の戦い」であると同時に、心理を読み「一番されたくないこと」を知るために、拷問する側が拷問される側に感情移入し憑依し一方的に心理的に溶け合って一つになっていくような、時間感覚が摩耗した閉鎖空間の中で「相手がどんな人間なのか」を理解したい過程、「逆ストックホルム症候群」的に次第に馴れと共感すら抱き、心を陵辱しながら一緒に心と命を消耗していく様子が、執拗に描かれます。
拷問シーンなんて省略して結果だけ描いても良さそうなもんですけど、
「拷問にも美学というか文学性を見出しちゃってんな、この作家」
という。
『姫様拷問』も表層が反転しているだけで、拷問する側と拷問される側の心理的な駆け引きやシンクロ、「相手を識る」「相手に作用する」コミュニケーションが持つ美学や文学性、通底しているものは北方謙三作品の拷問シーンと共通しているのかもしれないな、などと思いながら、『姫様拷問』の新刊を手に取りましたが、
読んだらその辺どうでもよくなって、上に書いたようなことも全部たぶん気のせいだと思いました。
aqm.hatenablog.jp
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