30年前、国際テロ組織「LEL(経済解放同盟)」により羽田発パリ行きの航空機がハイジャックされ、機はテロリストによって中東の空港に降ろされた。
乗客は全員、殺害されるか、洗脳され戦闘員としての訓練を施されLELの構成員、テロリストに育て上げられた。
30年後、当時児童だった島崎真吾はLELの拠点を脱出して日本に帰国、同様に脱出した同じ境遇の「日本人」たちと、日本国内で公安警察の監視を受けながら生活。
喫茶店の店員や漫画家のアシスタントのバイトをしながら、日本語の漢字や現代の日本の文化に少しずつ馴染もうと努力していた。
しかし、LELは脱出者への厳しい報復を身上としており、島崎たちの身辺にもテロリストの追手が少しづつ忍び寄っていた…
というハードボイルドもの。
「足を洗った殺し屋が一般人として生活」という雑に括る限りにおいて、建て付け『ザ・ファブル』によく似ていますが、「カタギになったアウトロー」は能力がある漫画家が真面目に描けば面白くなるに決まっている建て付けで、昔から『静かなるドン』やら最近だと『島さん』やら、その他ハードボイルド小説などでも定番の設定。
組織が「幻の殺し屋組織」から実在のモチーフを想像させる「国際テロ組織」に置き換わったことで、より血生臭く生々しい作品になりました。
島崎は1年以内に戦場に復帰してしまうことが『100ワニ』方式のカウントダウンで作中で予告されています。ある意味、日本を去って戦争に復帰してしまう『シティーハンター』。
先日、『ファブル』は第二部の完結巻、9巻が発売になりました。
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建て付けがよく似ている、と先述しましたが、今巻はその『ファブル』9巻と好対照な巻。
「足抜け」した元・戦闘員の島崎に対し、LELの戦闘員一個小隊40人が迫る。
島崎は、合理性を重んじるテロ組織の撤退を促すため、「リソースに著しい損失を与える」こと、暗殺部隊の皆殺しを決意する…
『ファブル』のアキラが、
十数人の殺し屋たちと戦いながらも手加減し「峰打ち」して「不殺」を貫いたのに対して、島崎は合理的な目的のため正当防衛を超えて確実な殺意を持って、30人以上のテロリストを殺害します。
『ファブル』の作者がアキラとヨウコにだけは執拗に人を殺させないのと好対照。
片や人を殺さないことで、片や人を殺すことで、
「殺し屋であったということ」
を浮き彫りにしようと試みているかのような。
アクション面では、『ファブル』では描かれない「確殺」の意志を込めた殺陣が見られて、こういう表現は不謹慎かもしれませんが「眼福」なアクションシーン。
頭部や臓器の急所に銃弾を撃ち込み刃物を突き刺し、少年誌どころか青年誌でも滅多に見ないようなダーティで「殺した手応え」を伴う戦闘描写、「殺すため」に洗練された暴力描写。
『ファブル』のアキラが「聖人」に見えてしまうような(実際、彼はある意味そうなりつつありますが)、ダークヒーローぶり。
アクションシーンやバトルシーンがメインディッシュの一つである少年誌〜青年誌において、「『不殺』や『非暴力』を誓う主人公」という設定は珍しくありませんが、
本作のように、「足抜け」後にもここまで殺す主人公は珍しい。
多くの「不殺」主人公の作品で悪役を死なせる必要がある時は、事故や第三者の介入などで「主人公の手を汚させない」展開がほとんどです。
島崎は「殺せない」のではなく、平穏に暮らすという目的に対して「殺さない」ことが合理的であればそうするだけで、「殺す」方が合理的であればそうする主人公。
船橋やアキラと比較するのはフェアではないとは思います。彼らはここまで執拗に組織的に報復・粛清の対象として狙い撃ちで度々襲撃されたりは、していませんから。
作者の、主人公に対する、あるいは「人を殺す罪」に対する、ある種の諦観を感じます。
「人を殺した罪」を赦す資格を持つのは、いったい誰なのか。
数十人・数百人を殺した殺し屋が、「暴力の連鎖」から逃れて幸せになることは可能なのか。
ここにはご都合主義が在ったとしても、美談は在りません。
「敵を殺し尽くせば平和になる」
という愚かで極めて局所的・一時的な現実主義と、現実世界の時事ニュースの写し絵としての、やるせなさがあるだけです。
多くの作家が「元・殺し屋」の主人公に対して、正当防衛と不殺と贖罪を通じて
「赦し」
「やり直し」
「救い」
を与えようとする中、本作は島崎に対して
「赦されない」
「やり直せない」
「救われない」
と、何の留保もなく、ただ告げているかのような。
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